2011朝鲜留学感想

2024-08-10

2011朝鲜留学感想(通用2篇)

1.2011朝鲜留学感想 篇一

历史的因与果

—读《中苏同盟与朝鲜战争》有感

学号:51140400019

姓名:陈芳

听了沈教授关于中苏同盟与朝鲜战争的讲座我非常的惊讶,因为正如大部分中国学生一样我根本没有把这二者联系起来过。大部分的人都只知道,中国和苏联因为同属于社会主义国家,在那个艰难的时代一起同资本主义斗争,是好朋友,而出兵朝鲜战争中国人民是为了保家卫国。现在才明白中苏同盟新条约的签订导致了斯大林决定发动朝鲜战争,中国出兵朝鲜最主要的目的在于挽救中苏同盟。

相信很多听了讲座的同学同我刚听完时的感受是一样的,有一点失望。失望的主要在于原来我们的祖国并不是书上讲的那么无私与伟大,社会主义联盟也参杂着太多的利益纠葛。仔细深思之后觉得我们国家领导人当时的决定于作为也是无可厚非的。因为作为国家领导人在制定国家政策与外交政策时,必须把国家的利益放在首位。当时抗日战争与内战刚刚结束不久,我们党和国家消耗了太多的人力物力,我们需要一个和平的环境来休养生息。而当时国际局势复杂,社会主义所处的环境仍然很困难,我们需要团结当时同属社会主义的苏联。但是由于我国独立的要求,我们需要废除之前国民政府与沙俄及苏联签订的不平等条约,重新签订《中苏友好同盟互助条约》,这势必会损害苏联的利益,从某种角度来说,我们不得不得罪苏联。因此为了弥补苏联的损失,维护中苏同盟,中国需要同苏联一起,在朝鲜半岛留下社会主义的一部分,即北朝鲜,来弥补苏联在中国辽东半岛的损失,因此当时领导人同意出兵朝鲜。

当我们再去探寻中苏同盟与朝鲜关战争的关系的时候,我们会发现当时的局面其实在很早之前就已经埋下了原因。中国之所以谋求签订新的中苏同盟条约在于1945年国民党政府与苏联签订的《中苏友好同盟条约》里面包含了了对于中国来说不平等的协议,比如说将外蒙古从中国的版图独立出来,回复沙俄在中国东北的实力范围,以确保苏联在太平洋的出海口与不冻港等。而国民政府在大国的干涉下不得不被迫承认这一不平等条约。内战以中国共产党的胜利而结束,为了国家的独立和利益,我们党和国家必然要提出废除之前的不平等条约,签订新的中苏同盟条约。

这一原因其实也可以看做是当时国民政府实力不强,软弱的一个结果。如果当时国加有实力的话,完全不会被大国挟持。从这一因果,我们可以看出综合国力在外交中的重要地位,因此我们始终要把发展放在首要地位,不断完善我们国家的综合国力,真正做到独立自主。中苏同盟正式确立应该是在《中苏友好同盟互助条约》正式生效的1950年4月11日,此条约的有效期为30年。但是由于中国与苏联在各个方面的矛盾,如历史,边界,以及关于社会主义的发展的意识形态等多方面的矛盾,从60年代起,中苏两国关系恶化,该条约名存实亡。期满后没有再延长。而在这一时期,中国同英美等资本主义国家的关系逐渐开始缓和,并在70年代与许多资本主义国家建立了正常的外交关系。

从中苏同盟的兴衰与中美关系的发展当中我们可以看出在国家与国家的交往中,没有永远的朋友,只有永远的利益。因此作为不同的中国公民,我们应该理性的对待我们党和国家制定的方针政策,特别是我国的外交政策。相信这些政策的制定者都是十分清楚在外交领域中“没有永远的朋友,只有永远的利益”这一原则。之所以要强调这一点是因为在看新闻的时候,我注意到许多网友的回帖显示出他们在对待我国外交政策的不理性。遇到关于中国老朋友的如俄罗斯,朝鲜等新闻的时候,无论事实如何大部分人总是一片赞美之声,而对于似乎是老敌人如美国,日本等国家的新闻时总是一片嘘声。特别是当我们中国人提到日本的时候,恨意明显。有许多国人甚至把这种恨意发泄到普通的日本公民身上,如在某些爱国日打砸抢日企甚至辱骂日本普通公民。这是十分不理性的,我们需要记住历史和热爱我们的国家,但是我们也要注意到,和日本我们也有许多共同利益,需要合作,而对于普通的日本公民我们更应该理性对待,因为大部分的日本民众都是善良的。

再将目光转回朝鲜战争,朝鲜战争原是朝鲜半岛上的朝韩之间的民族内战,后分别支持朝韩双方的美国、苏联、中国等多个国家不同程度地卷入这场战争。1950年6月25日,朝鲜得到苏联默许不宣而战进攻韩国,历时三年的朝鲜战争爆发。1951年7月10日,中华人民共和国和朝鲜方面与联合国军的美国代表开始停战谈判,经过多次谈判后,终于在1953年7月27日签署《朝鲜停战协定》。经过这次战争,韩国与朝鲜以38线为界分别统治这朝鲜半岛的南北两部分。意识形态的差异与历史问题一直困扰着朝鲜半岛,是朝鲜半岛问题成为世界动荡局势之一。而同属于社会主义的我们应该清楚地看到朝鲜的社会主义发展是不健康的。存在着我们在社会主义探索初期的许多相似问题,当然这些问题肯定得有朝鲜的人民自己来解决。但是作为社会主义的一部分,我们有必要以过来人的身份去指引朝鲜和在不损害我国利益的前提下去帮助朝鲜,使其步入社会主义的发展的正轨。这样我们亚洲才不至于腹背受敌,孤立无援。

哲学上的因果关系在中苏同盟与朝鲜战争的关系里面体现的淋漓尽致。历史很微妙,很多人觉得历史发生在过去,是可以隐藏的。但是由于因果关系的缘故,总会有部分真相会存在,当我们顺着这部分真相去追寻与探究,必然能还原历史的本来面目,这也是我们研究历史的意义与乐趣所在。总之这堂课让我受益匪浅。

2.日本留学感想文集 篇二

――半年間の留学生活を振り返って

目次

留学の感想……………………………………………0401班 陳 靖

日本の印象…………………………………………0401班 陳 迪思 東瀛との出会い……………………………………0401班 丁 建萍 日本での感触そして感動…………………………04甲班 耿 貝妮 特別な体験、貴重な経験…………………………04甲班 胡 麗芳 ――日本留学について

留学体験について…………………………………04甲班 蒋 玲玲 留学の感想……………………………………………0401班 李 頴 滑走、離陸、飛行………………………………………0401班 繆 嬋 思い出せば……………………………………………0401班 王 琳 半年の留学を振り返って……………………………0401班 王 洋 「さようなら」から「ただいま」へ……………0401班 徐 哲紋 私の日本留学…………………………………………0401班 叶 楠

私の留学日記………………………………………0401班 張 叔傑 半年の留学生活を憶う……………………………04甲班 周 倩倩

浙江工商大学日本日本語言文化学院

留学の感想

日本語学科0401班 陳 靖

2008年3月1日、広い関西空港のターミナルビルの中で、私は出発口に一番近い席に座りながら、12時30分発の中国杭州行きの飛行機を待っていた。再びこの場所に来た時、日本に到着した時のことが突然脳裏に浮かび、同時に私は再び原点に戻るという錯覚を覚えた。正直、自分が今どんな気持ちなのかよく分からなかった。興奮、焦り、未練、困惑…。日本での生活は奇妙、感動、そしてとても魅力的だったと思う。

2007年9月10日、二時間を経て日本の地面を自らの足でしっかり踏みしめた時、私のハラハラした気持ちはやっと落ち着いた。初めて飛行機に乗る時の感覚と同じで、日本での生活がすぐに現実になると考えると、自分の興奮する気持ちを抑えならなかった。他のクラスメートを見ても、みんなとても興奮しているようだった。

カートに積まれた重い荷物を押して、綺麗な地面を踏みしめながら、私はこれからの生活へと歩いていった。私の吐息と歩みの中には僅かな不安と焦りがあった。教科書やテレビの中での「日本」、そして憧れていた日本での留学生活が皆現実になる。初めて中国から出て、初めて日本人の世界へ入って、初めて日本の学校で勉強して、初めて……。ひょっとしたら数え切れないほどの「初めて」がこの半年の間に起る。

大阪へきたばかりのころ、天気はまだ暑かった。しかし、青空と綺麗な空気は私にとってはとても久しぶりだった。私たちが生活するところは羽曳野市というところだった。寮は日本人の住宅団地の中にある。寮の建物はあまり大きくなかったが、家の前に小さな庭があって、とても綺麗だ。

来たばかりの時、まだ夏休み中だったのだが、毎日二人のルームメートと一緒にスーパーへ買い物に行くことが日課になった。夜の八時ごろ、寮は急に賑やかになる。それはその時間帯にスーパーでは商品を半額で販売し始めるため、みんながそれを買いに出掛けるからだ。肉はもちろん、果物は一つ一つで販売ずる。これらは中国人の私たちにとっては初めはかなり不慣れであった。

寮で生活を始めて十数日が過ぎ、新学期がやっと始まった。私たちの科目はうちの学校と一致しなければならなかったので、四天王寺大学での科目もほとんど規定された。しかし、ほかの科目も学生は自分のレベルに基づいて選べる。日本の大学から私が受けた印象は自由であるということだ。科目を選ぶ前に先生の授業を先に受けることができる。専門の課程以外に、日本文化、歴史、文学などの科目があり、学生は自分の好みによって自由に選べるのだ。こんな形で、学生には大きな選択の自由が与えられ、個性と趣味も発揮できる。半年の学習生活で私が受けた一番大きな印象は、日本人の先生は普段の学習を重視する反面、テストは意外に簡単であるということだ。ほとんどの先生は新学期の初めての授業でどうやって成績を評定するのかを学生にはっきり伝える。

実際に日本で生活してみて、教科書から学んだ「日本」に関する私の知識が如何に貧弱であるかということに気が付かされた。日本人はみんな電車で狸寝入りしたり、漫画を読んだりだけではない。私は一体右側を歩いているのか、それとも左側なのかよく迷った。また使い終えた電池を捨てたいけど、捨てる日をいつも忘れてしまう。しかも、何度も恥を掻いたことがある。最も印象深かったことは横断歩道での出来事だった。日本に行ったばかりの頃、横断歩道で人が道を渡っているときに、車とあたりそうになると、人が先に浅いお辞儀をしてから通る光景をよく目にした。中国には「郷に入っては郷に従う」という諺がある。さすが礼儀正しい国だなあと感じながら、今度、私も私を先に通してくれた 2 車に対し、九十度以上のお辞儀をしてしまった。

10月12日、私は人生初の仕事を始めた。仕事先はあるレストランだった。そして、3ヶ月ぐらいのアルバイトの経験を通して、私は日本人の生活に一歩近づいた気がした。アルバイトをして、ひとつのことに気がついた。耳に入る最も多い言葉はおそらく「すみません」だろう。日本人は人に迷惑をかける時はもちろん、ほかの場合にも「すみません」と返事することが多いようだ。アルバイトを始めたばかりのころ、客に料理を出すとき、私が想定していた「ありがとう」という返事ではなく、意外にも「すみません」という言葉を頻繁に耳にした。別に客が私に謝る必要はないのに、なぜ私に謝るのかどうしても理解できなかった。

それは日本人が恩を感じることを重視するのだとひとつの授業で習ったことがある。日本人は「比較的に縁の遠い人から、図らずも恩恵を蒙ることは、最も不快に感じるところである」と。たとえ私のような縁もない店員であっても、日本人に見れば、恩を蒙ることになるのだろう。

大学祭の中華カフェー、反省会のたこ焼きパーティー、京都の紅葉、優しい先生方、バイト先の友達……。たった半年だったが、日本での生活は私にとって一生忘れられない思い出である。

日本の印象

日本語学科0401班 陳 迪思

光陰矢のごとし。半年間の日本での留学生活があっという間に過ぎてしまった。この半年間は長いようで短い時間だったが、日本や日本文化について学ぶことができ、またいろんな人と出会い、いろんなことを経験し、これからの長い人生にとって、すばらしい経験であったと思う。収穫の多い半年間であると同時に、感慨の深い半年間でもあった。ある国の言葉と文化を勉強するには、自分でその国に行き経験せねばならぬとある学者はそう言っていた。私もそう思う。留学前に遊学という形で半月ぐらい日本に滞在した。飛行機から降りた瞬間のあの感動と言ったら、「あ、ここが日本、自分が勉強している日本語の母国なんだ!」と興奮してたまらなかった。半月はさすがに短かったため、残念ながら見聞できたことはそれほど多くはなかったが、今回は前回と違って新しい日本を感じた。まずは日本人の謹厳実直な仕事振りである。計画から実施までどんな細かいところでもきちんとしている。参加者全員の行動の一致を求めるために何度も説明会や会議をすることが多い。大学祭の時、日本人の学生たちと一緒に中華茶館を開いた。当日接客用の台詞まで皆で考えて、そして何度も演習した。そんなに細かくしなくても勝手にやればいいのではと思ってしまうこともあるかもしれないが、その拘りがあるからこそ、例えば日本のバスや電車がいつも時間厳守で遅刻があまりないとか、電車に乗り込むために走ってる人以外慌てている日本人をあまり見かけないとか、そういう状況が生まれるのである。それはすべて計画通りだから。それに、日本の電気製品など品質がいいという評判もそれとかかわっているのだろう。中国の場合は効率が大切だ。つまり速くやれ、よくやれと二つの意味を持っている。しかし、日本人の場合はスピードよりも出来栄えのほうが大事である。日本人の仕事ぶりを見ていると、なぜそんなにのんびりでいられるのだろうと思うことがよくあるが、その素敵な出来栄えを見てたら、さすが日本人だとまた思わず感心してしまうのだ。私が感じたのは、日本人はアクシデントとか想定外の出来事とかあんまり好きではないようだ。たぶん、起り得るアクシデントもすでに前もって計算されていて、それを防ぐための計画も立っているのだろう。そういう謹厳なところはわれわれの参考にもなるのではないかと私は思っている。日本は優しい国である。バスは乗客がきちんと座ってから動き出す。電車には冬になると座席にも暖房が入る。トイレには、予備のトイレットペーパーがいつも置いてある。それに、赤ちゃん連れのお母さんのために、オムツ替えのシートもある。そういう細部に至るまで人のために考えているところがすごく優しいと思う。日本のサービス業界の「顧客第一」の考えもすばらしいと思う。買い物に行ったら、店員さんの笑顔がいつも素敵だ。釣りを出す時は、ちゃんと一枚ずつ数えながらお客さんに渡す。それはどんな店に行っても同じである。それに、販売されるものにはいつもサンプルがついている。アイスクリームの場合、各味各サイズ、全部サンプルとなって羅列されていて、実物とほとんど同じように作られている。包装のある商品もちゃんと中身を示すサンプルがついている。それに、試食できるものもよくある。お客さんがその品物をよく知ってから購入するため、騙されることも少なくなる。一つすごく印象に残ったことがる。それは日本に行ったばかりの時だった。みんな揃ってソフトバンクの営業店に携帯電話を買いに行った。でも、外国人登録証とか銀行口座の都合とかいろいろな理由で、なかなか順調に契約を結べなかった。しかし、次の日またその店に行ったら、店の中に一つの本が増えていた。「中国語入門」の本だった。それに店員さんが何かを説明してくれる時、時々変な中国語の単語が出たりし 4 て、びっくりした。ただ私たち十何人のためにそこまでしてくれるなんて、その気持ちに本当に感動した。中国では「お客様は神様」という言い方があるが、それは日本にこそ当てはまる言葉であると感じた。

この半年間、いろんな人と出会った。親切な方々ばかりだった。中国からの留学生だと分かって、親切に声をかけてくれる人もいた。バイト先のラーメン屋さんで、ラーメンを食べながら中日文化を語っているお客さんもいた。それを聞いて、みんなかなり中国文化に熱心だなと感心した。しかし、こんな質問をされたこともあった。「中国の人って、やはりみんな日本人のこと嫌い?」とか「日本に留学に来て、両親に反対されてない?」とか。どうしてと尋ねてみたら、テレビのニュースで反日のデモを見たと答えてくれた。わたしが何度もそうではないと言っても、相手は半信半疑のようだった。

テレビをよく見てから、こんなことに気づいた。日本のテレビは、中国の悪い事情を放送するのが好きなようだと。例えばダンボールの饅頭餡、偽者の遊園地とか中国でも周知されていない話について、むしろ日本人のほうがテレビを通じてよく知っているようだ。日本人の中には中国のことが好きな人、中国文化に興味を抱いている人は結構いるが、実際に中国に来られる人は少ない。そこで、テレビなどのマスコミに頼る人が多い。もしマスコミがマイナスなものばかり放送したら、人々に相当な悪影響を与えてしまう。中国の話をすると、ダンボールの饅頭餡、偽者の遊園地、偽者のブランド品のバックとか、まるで中国が偽者や悪者のパラダイスみたいに言われている。私が見た広州の偽バッグのニュースも、カメラマンがわざわざ広州までやってきて、取材したものだそうだ。そこまでするのなら、もっと積極的なものを調査したほうがいいのではないかと私は思った。もちろん否定できないのは、中国のマスコミも同じく日本の悪いニュースを流す傾向があるということだ。悪いことだからこそニュースになるのであるが、中国と日本の間にはやはり歴史の影が重いと思う。もし両方のマスコミがお互いに攻撃するのをやめて、もっと積極的に交流し、活躍すれば、きっと良い状況が生れると思う。

最後に、この長いようで短かった旅の間に出会ったみんなに一言。本当に楽しかった。ありがとう、そして、またね。

東瀛との出会い

日本語学科0401班 丁 建萍

日本に行く前、留学をする甲斐が果たしてあるのかどうかずっと迷っていたが、今この半年を振り返ると、あっという間な感じで、もっと長く滞在できれば良かったのにと思っている。一つの言葉を勉強するのには、その国についていろいろ学んだりしても、実際に行ってみないと、抽象的なイメージに過ぎないと思う。行く時は、今回の留学が自分の語学力のアップにどのぐらい助けになるのかぐらいのことしか気になってなかったのだ。今考えると、語学力の上達はもちろん重要だけど、私が一番大切だと思ったのは実際に自分の目で見たり、心で感じたりして、様々な日本人と接することができたことだ。日本人の考え方についてもいろいろ勉強になった。

異国での生活は充実しており、新鮮だった。楽しいことがたくさんあった反面、困ったことも決して少なくなかった。コンビニでのバイトを始めた時「御袋ご利用ですか」と言ってしまって、店長に笑われたことがある。切符の販売機に向かった時、うっかりして「呼び出し」というボタンを押してしまった。すると隣の小さな窓が開き、或る人の頭がまるで童話の啄木鳥のように、ぎゅっと窓から出て来て、心配そうな顔で「どうしましたか」と私に聞いた。さすがに私は驚かされた。あれから、友達と寮までずっと笑いながら帰った。東京に着いて、トイレに行ってきたら、訳もわからなく急に警察に取り囲まれて、パスポートを出してくださいと言われたこともある。また、私が自転車で怪我したお陰で、病院に行く経験もできた。保険に入ってない場合は、さすがに診察費も高かった。それから、日本人の友達ができてから、一緒にカラオケに行ったり、ボーリングをやったり、USJに遊びに行ったりした。割り勘にはまだちょっと慣れていなかったけど、遊びながらお互いの感情が深くなるのが感じられた。私がずっと感心しているのは日本人の熱心な仕事ぶりである。一緒に働いていた人は私ができるまで、皆熱心に何回も教えながら、なぜああせずに、こうすべきかもちゃんと説明してくれた。皆いつも一生懸命仕事をやっていて、人に迷惑をかけないという意識がすごく強かった。そのため、学生は学校をサボることはあっても、バイトを休むことは非常に珍しい。また仕事中、彼らはいい加減に対処することなく、強い責任感を持って頑張っている。時々、駅で勤めている人や宣伝をやっている人がずっとお辞儀をしながら、大声で 「ありがとうございます」、「ありがとうございました」と言っている場面を見ると、感動で胸が熱くなった。中国では多くの学生が自分の勉強に情熱的に取り組むのに対して、日本の大学生はクラブ活動をやるときが一番やる気満々に見える。特に私を驚かせたのは、車で学校に通っている学生が結構多い事、大勢の女性が持っているのはLVのかばんであるにも拘らず、学費を払えないとか言って、学校を辞めようとする人がいる事、また家に帰りたくなくて、外で一人で一晩中お酒を飲んだりする人がいる事などである。自分の国から出ると、母国への深い愛情さえ感じられるとある先生がおっしゃったように、日本へ行ったら、何かをやる前に自分自身のことだけではなく、母国の体面にかかわることもよく考えるようになった。普段、ルームメートと私は中国人の顔に泥を塗らないためにも、遅刻してはいけないとお互い注意しあったりした。またルームメートがバイトを始めた時、オーナーがご飯を持ち帰ることはできるけど、多く持っていってはいけないと言った。なぜなら、それはあの店で働いていた一人の中国人がよくたくさんのご飯を持って帰っていたからだ。ルームメートはそれを聞くと苛立って、一回もご飯を持って帰らなかった。私も賛成した。私たち中国人の名誉のために、お米がいくら高くても、持って帰ってはいけないと思った。今振 6 り返ると、その時ちょっとやりすぎだったかもしれないと思うこともあるけど、もう一度こういう状況に直面しても、たぶん同じようにするだろう。このようなことは日本にいた時よくあった。正直に言うと、日本人の中国に対するイメージは決してよいものではないと感じられた。そのため、自分がちゃんとできていてなかったら、日本人の中国人に対する悪い印象を更に強めるだろうという心配がずっとあった。異国に住んでいる時、自分の国の悪口を耳にするほど恐ろしいことはないと思う。スナックで働いている中国人女性が多いと聞いた時、またバイト先の店長から中国が現在直面している一番の問題は経済発展と環境保護のバランスを考慮することにあると言われた時、自分の気持ちは複雑だった。帰国してから、私たちは日本の先進的な面から学ぶべきだとよく口にするけど、日本にいた時には自分の国に様々な問題があると分かっていても、なかなか口に出せなかった。留学の最後の一ヶ月、餃子中每の事件について毎日何度も放送されていた。その時は一刻も早く中国に帰って、そのニュースから遠ざかりたくて堪らなかった。

一方、私たちは中国人として、違う文化を持っている国に行き、違う教育を受けて来たわけだが、中国人も日本人も同じ人間で基本的には共通しているということも感じた。日本人の国民はみんな優しかった。初めて会話を交わした時、私はいつも両国の違うところをよく口にしてしまったが、実は多くの考え方もやり方も一緒だと感じられるようになった。何と言っても、中国も日本も同じアジアの一員であり、そして日本は中国からの影響を深く受けてきた国だからだ。お互いの国境を忘れた上で、より深いコミュニケーションができれば、お互いの文化をより深く理解できると思う。

日本での感触そして感動

日本語学科04甲班 耿 貝妮

日本に行った半年間は、喜びもあり涙もあり、寂しさもあり激情もあったが、今振り返ればそれら全ては感動であった。

考えのきめ細かい大阪人

9月10日、私達14人はM875フライトに乗り20年間生活してきた馴染み深い杭州を離れ、日本に向かいました。日本語と日本の文化を3年間学んで、ずっと日本を憧憬の眼差しで眺めてきた私にとって、日本に対するイメージを教科書の内容から思い描くだけで終わらせたくはないとずっと思ってきました。初めて自分の国を離れた時は、ドキドキ緊張していました。でも、その緊張感は空港までわざわざ来られたIBU国際交流センターの先生達の笑顔を見た瞬間、一気に解れました。私達の荷物を持ってくれて、私達は旅行中の見聞について話しました。関西空港は海岸に位置しており、海の景色を鑑賞しながら先生達と話しているうちに、すぐ寮に着きました。寮は二階建ての別荘のようでした。寝室は小さいけど、必要なものが全部準備してありました。電子レンジ、湯沸かし器、エアコン、カラーテレビ、冷蔵庫、包丁、ハンガーまで何でも揃っていました。まるで自分の家のように感じられました。ちょっと整理して休んでから、先生達は私たちを連れて一番近いスーパーに行き、必要なものを買ってくださいと言いました。先生たちは私達の買い物が終わるまでずっと外で待っていてくれました。みんなの買い物が終わってから先生達は私達を寮まで送ってくれました。そして、先生はその後一週間のスケジュールを私達に紹介し、私達を連れて銀行カード、健康保険、携帯電話などの手続きをしてくれ、自転車の購入にも付き合ってくれました。初めて日本に行って、感じたのは9月の強い日差しと考えのきめ細かい大阪人でした。

情熱的、友好的な仕事仲間

10月、人生で初めての仕事を始めました。コンビニでの仕事です。偶然買い物に行った時、入り口に従業員募集のポスターが貼ってあることに気が付きました。是非やってみようと思い、私は人生で初めての履歴書を持って、オーナーとの面接に臨みました。オーナーは主に私がアルバイトの未経験者であることを心配し、また5ヶ月しかできないので、最初は少し悩んでいるようでしたが、私にアルバイトのチャンスを与えてくれました。仕事も日本語も頑張ってと私に言ってくれました。最初は「いらっしゃいませ」という簡単な言葉も口に出せませんでした。私が一人前になる為にまず必要なのは自分自身の努力ですが、更に欠かせなかったのは同僚達助けでした。最初は何をどうやるのかよく分からなくて、いつも間違いました。同僚にもいろいろ迷惑をかけました。しかし彼らは毎回私のことを親切に助けてくれて、更にはお詫びの気持ちでいっぱいの私を慰めてくれたりもしました。床掃除、商品の補充、レジ、郵便小包など仕事のやり方を覚えられたのは彼らのおかげです。仕事以外の時間に彼らはいつも私をカラオケに誘ってくれて、食事をしたり、旅行に行ったり、私の生活を豊かにしてくれました。日本人との付き合いを通して日本の風習と日本人の考え方を更に深く理解しました。中国人という理由から差別されたりすることは全くなくて、彼らは完全に私を仲間に加えてくれました。日本を離れる前にオーナーに別れの挨拶をした時、彼は私にまたもし大阪に来る機会があるならぜひうちの店で働いてくれと言い、その話を聞いて私はすごく感動しました。私の5ヶ月の仕事に対して高 8 く評価してくれたものと思っています。

無私な先生達とかわいい学友達

日本の先生は私達の特殊性まで考慮して、私達14人のために単独で多くの授業をしてくれました。このような教授法は確かに私達に多くの収穫を齎してくれました。いつも満面の笑顔の矢羽野先生、厳格ですが私達を最も愛してくれた南谷先生、博学で面白い高原先生…。先生たちのおかげで私達は多くの知識を身に付けることができました。ちょうど日本に行く私達には現地に友達がいないから、授業を受けることだけで、他の課外活動はほとんど何もありません。先生達は多くの活動の方案を制定し、日本の学生と私達が一緒に活動できるように、中日の学生の交流の場を準備してくれ、また一方では私達の課外活動を豊かにして、私達の日本語のレベルの向上に気を遣ってくれました。先生達の献身的な努力と学友達の積極的な協力のおかげで、歓迎会、神宮旅行、京都旅行、送別会など様々な活動を行うことができました。私達はそれらの活動を通して日本人の情熱に深く心を打たれました。

謙虚で環境保護意識の強い日本人

日本に行ってから、毎日日本を経験する中で、以前教科書で学んだ「礼儀の国」という4文字が最も完璧な解釈を得ました。エレベーターではみんな右側に整然と一列になって立ち、急いで行かなければならない人のために左側通路を開けておく点、バス停では秩序を重視し一列に並んで待つ点、ゴミを厳格に分類する点、街にゴミ箱は多くないにもかかわらず、道はきれいで衛生的である点、犬の散歩時に責任を持ってフンの後始末をする点などなど。全てが整然と秩序立てて行われているのには感銘を受けざるを得ませんでした。「申し訳ありません」は日本で使用頻数が最も多い一句であり、自分の行為が他人に迷惑をかける場合にはどんな些細なことでも相手に謝罪をする。

目がくらむ美食とアクセサリー

日本に行く前、日本はショッピングの天国であると聞いていたがまさにその通りであった。どこに行っても見られるたこ焼き、お寿司、おにぎり、そして装飾がとてもかわいい商店。私は知らず知らずのうちに吸い込まれるようにして中へ入ってしまった。中へ入った後そこから出たくなくなる。精巧に作られたペンダントなど小さなかわいらしい商品を見た時、私は思わず日本人のアイデアと構想に感嘆させられた。

半年間はあっという間に過ぎてしまったが、それは私にたくさんの財産、たくさんの美しい記憶を残してくれた。これらは私のこれからの生活の中できっと役に立つと思う。

特別な体験 貴重な経験

――日本留学について

日本語学科04甲班 胡 麗芳

半年の留学生活はあっという間に過ぎてしまいました。生活にしても、勉強にしても、非常に充実して過ごしました。思い出す度にいろいろな感情が心に湧いてきます。

四天王寺大学が私達留学生のために開設した課程は浙江工商大学日本言語文化学部の課程と同じように、日本文化、日本経済、日中翻訳などの科目を含んでいます。それらの中で、日本人の学生さんと一緒に受ける授業がある一方、私達十四人で受ける授業もあります。そのような形式により、日本人の学生さんと交流することができるだけでなく、私達交換留学生の語学レベルによって効果的に授業を受ける事ができました。日本で授業を受けて感じたのは、日本人の先生が非常に学生の勤勉性を重視しているということです。それこそ中国と欧米の成果主義とは異なっているところだと思います。中国で三年間も日本語を勉強してきましたが、日本に来てから、日本社会と日本人の国民性の奥にあるものを理解できるようになってきました。日本人はいつも「恩」、「情」、「恥」などの礼儀を大切にします。他人から何かを受けたら、恩返しをしなければなりません。それに、他人との関係の親しさによって、恩返しの仕方も変わります。また「恥」というものも常に意識されています。日本人の国民性の特徴については日本文化の授業でいろいろと学びました。それらはわれわれ中国の学生にとってとても興味深い内容でした。日本人と日常生活で接する中で、「日本人は礼儀正しい」という言葉が一層理解できるようになりました。日本人は「立場」をどのように認識するかということにいつも気を配ります。どんな職場でもその地位に相忚しい「立場」を正く意識し、出来る限り自分の能力を発揮し、努力しようとします。このように「日本人はいつもこつこつと働く」という印象を外国人に与え、強い責任感を持っていると外国人に感じさせます。日本語と文学を専攻している私たちは、日本社会に実際に身を置いて、自ら体験する必要があると思います。この半年間、生活を通して体験し、感じたものは本で学んだ知識よりも遥かに貴重です。「体験が成長の糧」と言われるように、その社会に身をおいて実践的に体験してこそ、その社会の奥にあるものを心で感じ取ることができます。教科書から学ぶことはあくまでも知識の習得であり、実践することこそが本当の勉強だと思います。生活の面において、半年の日本滞在期間中はずっと四天王寺大学の先生方から至れり尽くせりのお世話になりました。寮の中には何種類もの電気製品が設置されており、生活する上ではとても便利でした。それに、先生方がいつもいろいろ配慮してくれて、生活の面で何か不便なところがあるとすぐ解決してくれました。そのおかげで、半年の留学生活は本当に楽しく過ごせました。

生活といい、勉強といい、非常に細やかな問題であっても、先生方がいつも非常に熱心に解決してくれました。

授業と日常生活の両方で日本語を勉強し、日本社会を体験することができただけでなく、半年の留学生活の中で色々な貴重な体験もできました。クラスメートは皆それぞれ自分なりの人生の目標を持っており、半年の留学生活の中でどのようにすれば時間を無駄にしないで、自分の目標に少しでも近づいていけるかということがとても大切でした。みんな半年という時間を有効的に利用し、日本社会の奥に潜む魅力的なものを発見し、その面白さと美しさを吟味しようと夢中でした。また日本人との日常生活上での交流を通じて、会話力が一層よくなってきただけでなく、日本人の話の運び方、思考方式など前から理解し難 10 かったことも、日本に来てから理解できるようになってきました。四天王寺大学は静かなところに位置していますが、生活の上ではとても便利でした。寮の近くにはバス停があって、町に行くのも便利です。とりわけ、日本は交通網が非常に整備されている国で、各駅の間は電車線で繋がれていて、電車のスピードも速く、時間の節約にもなります。それらは日本人の「よく働く」、「時間を無駄にしない」という意識にも関わっていると思います。この半年の留学生活は、勉強と経験を同時にする過程であったとも言えます。二つの面に分けると、授業中の勉強と体験、実践中の勉強と体験に分けられます。授業中には言語と文学を勉強しますが、日本人と接すると日本人が持っている勤勉性、謙虚性、責任感といったものがひしひしと伝わってきます。それこそ日本人が人格を重視している原因だと思います。もう一つは、日本人が自国の尊厳を大切にしているということです。日本の街を歩く時に、いつも日本人の友好さに胸を打たれます。

例えば、道に迷ってしまった時、近くにいる日本人に道を聞いたら、すぐに返事をしてくれます。知らなくても、他の日本人に聞いてから教えてくれます。日本人のそのような友好さに感動してしまうのは当たり前のことでしょう。だから、日本人は「他人に対する礼儀を重んじ、良い印象を与えてくれる」とよく言われます。それこそ「日本が住みやすい」と言われ、日本人が誠実で友好的な性格であると言われる有力な証拠です。現在、日本のあらゆる町に数えきれない程の外国人が住んでいます。日本は大いに外来の文化を受け入れつつ、自国の経済を発展させてきました。僅か半年という短い期間ではありましたが、日本を自らの足で歩き、その魅力をじっくり味わうことが出来て本当に良かったと思います。たくさんの日本人の友達が「日本は住みやすい国だ」と言っていましたが、私は日本の国民の積極的、友好的そして前向きな態度をいつまでも覚えていると思います。日本に対する感情が認識から理解に変わり、理解から熱愛に変わりました。日本でのいろいろな出来事を思い出す度に、日本が私の第二の母国だという気がします。半年の留学生活でいろいろな勉強ができたことに満足している一方、日本に対する熱愛の感情で今は胸がいっぱいです。

留学体験について

日本語学科04甲班 蒋 玲玲

去年の九月、学校の手配により、私たち14人は大阪に交換留学に行くチャンスを手に入れた。半年間はあっという間だったけど、私たちはいろいろ貴重なものを得ることが出来た。

大阪に着いたばかりの時は、大阪弁がすごく苦手で、勉強した標準語が全然役に立たないと痛感した。それに、周りの人は皆早口で、私はあまり聞き取れなかった。だから、最初は言葉のせいで私はさびしくて、強い孤独感があった。早くこの半年を過ごして、家に帰ろうと思っていた。でも、時間が経つにつれて、私はだんだんその環境に馴染んできて、帰国したいという気持ちもそんなに強くなくなってきて、逆にこの国に好感が持てるようになって来た。その理由の一つが国際交流センターの先生方から多くの支援とお世話も頂いたことである。両親のように、至れり尽くせり私たちの生活の面倒を見てくれて、その親切は私たちの心に深く刻まれた。したがって、言い換えると、この半年間もし国際交流センターの先生方の十分な忚援がなかったら、私たちはそのように楽な留学生活を過ごせなかったと思う。

半年の留学のおかげで、私たちは日本的な学習生活を十分に体験した。日本人の学生と一緒に授業を受けて、交流することはすごく楽しかった。学校ではどこにでも日本的な雰囲気が満ち溢れている。私たちが体験した日本文化は学校の教科書とぜんぜん違っていて、授業だけでは学べないものである。日本の教育は学生の個性の発展を強調する。発表、スピーチ、論文など先生方は大きなスペースを提供し、学生に自由に個性や能力を発揮させる。こういう方法を通じて、学生の考えや意見などを聞くことが出来たのは私の中で一番深く印象に残っている点である。特に南谷先生の日本文化論は私たちに日本文化について詳しく理解させてくれた。いくつかの論文を通じて、日本文化に対する私たちなりの考え方が生まれた。そして、この方法で先生とやりとりしてよく交流した。これは日中交流に役に立つのではないかと思う。文化論を勉強する前に日本文化は私たちにとって抽象的で理解しにくいものだと思っていたが、先生は具体的な事物を使って説明してくれた。日本人の学生は休日にはそれなりに有意義な生活を送っているようだ。特にクラブ活動が大部分の時間を占めている。普段、学校で学生たちは三々五々クラブのこと等について話してよく笑っている。その光景を見て彼らの集団主義を強く感じた。彼らの集団に入るのは難しいけど、彼らと付き合ってみたら、いろいろ勉強になるかもしれないと思った。特に日本でのアルバイトの経験は私にとって一番大切な思い出である。やさしい同僚、店長そしてお客さん、皆は私に親切にしてくれた。初め自分が外国人だから偏見があるのかなとずっと心配していた。長い時間が経って、皆は私が彼らの集団に入れるように支援してくれていることが分かった。日本に好奇心をいっぱい持っている私はバイトを通じて、様々な生活を体験した。もし多くのやりとりがあれば、日中の交流はもっと順調になって、両方の距離が縮まるかもしれない。

そして、計画を重視する日本人にも深い印象を受けた。学習でも生活でも仕事でも、一般の日本人は事前に計画を作ることが好きだ。彼らは計画が急に変更することを嫌う。そのことを私はバイトの過程を通じてよく分かった。初めはこういう方式にぜんぜん慣れていないから、いろいろなミスを犯した。しかし、彼らの生活を理解した後、私もこういう習慣を身につけるようになっていった。半年は短いけど、いい習慣を身につけることができたと思う。

日本人の部屋は大体皆きれいである。日本人の先生の家に一回行ったことがあるが、非 12 常に清潔であることに私たちは驚いた。私はこういうような日本人の国民性に心から感心した。そして、日本のゴミは燃えるごみと燃えないごみ二種類に分けて、捨てる時間も決まっている。最初は慣れなかったけれど、このようなやり方は地球にやさしくて、リサイクルにもいいと言われているから、できるだけ協力すべきだと意識するようになった。確かに、日本には多くの長所があると認めなければならない。誰にでも長所があるように、どんな国にでも優秀なところがある。この半年、私は人の長所を学んで自分の短所を改善するということがよくわかった。この半年いろいろな経験をした。また海外にいる時、自分は中国人であるということを強く意識するようになった。祖国のために栄光を勝ち取るというのが私たちの使命になった。

私たちの成長は私たちだけで感じられるものである。日本語の勉強はただの資格証明書取得のための知識や教科書の知識だけでなく、忚用や実践力を伴うものでなければならない。留学はその近道だと言われる。確かにその通りだ。いろいろな人と出会って、自分の経験が豊かになるなど、私たちの成長に大きな影響を与えたと思う。今回の留学経験は私の今後の生活に影響をもたらすに違いない。自分の人生は自分の力で作るということをちゃんと痛感した。どんなに辛くても、頑張っていればきっといいことがあると信じているし、私はこれからの人生に自信をいっぱい持っている。また、学校にもう一度感謝したい。学校のおかげで、この留学は私の大学生活における最高の宝物になった。

留学の感想

日本語学科0401班 李 頴

半年の留学生活はあっと言う間に終わりました。本当に短かったです。日本に行った日の光景が今でも目の前に浮かぶようで、私はあの時のはらはらどきどきした気持ちを昨日の事のようはっきり覚えています。20年間、一度も親元を離れたことのない私にとってこの留学生活は一種の挑戦であったとも言えます。何もできない私には留学生活を前にして不安がたくさんありました。

日本に来る前日、興奮と不安とで私は全然眠れませんでした。次の日、親と挨拶を交わし、ついに門出の時を迎えました。しかし私は決して一人ではありませんでした。私の周りにはたくさんの友達がいました。留学とは私にとって夢でしかなかったけど、学校のおかげでそれは現実になりました。向こうの学校からこのような貴重なチャンスをいただいて、本当にありがとうって言いたいです。特に国際交流センターの先生たちが優しく、いろいろお世話をしてくれました。初めて親元を離れるわけですから、時々寂しさや悲しさを感じることもありました。もし先生方そして友達の支えがなければ、この寂しさを克服しようという勇気は湧いてこなかったと思います。皆が傍に居てくれたから、留学生活は幸せでした。

また留学してから、以前当たり前のように親にして貰っていたことがどれだけ尊く、また家族とは如何に掛け替えのない存在であるのかが分かるようになり、親のありがたさ、親の優しさを身に沁みて痛感しました。でも日本にいる時、私の友達は皆まるで私の家族のようでした。留学が終れば友達とまたばらばらになると思うと突然落ちこんでしまいました。あの時、私は中国に帰りたいけど、帰りたくないという複雑な気持ちでした。日本に滞在している時、いろいろな所に行きました。例えば奈良には何度も行きました。先生のおかげで、奈良の観光地やお寺や公園にもよく行きました。奈良といえば、今でも鹿を思い浮かべます。奈良では街中にも公園にも、鹿がたくさんいます。まるで奈良の主人公見たいな存在です。鹿煎餅を持っていると、すぐ鹿に取り囲まれてしまい、この静かな動物は急に獰猛な動物に豹変したかのように餌を追いかけます。奈良は不思議で綺麗な町です。京都にも行きましたが、奈良と京都とでは趣が全然違います。京都の美しさはもっと深い感じがします。嵐山の紅葉は人の心に染み入るほど美しかったのを覚えています。一番思い出に残っている所は東京のディズニーランドです。音楽もいいし、キャラクターもかわいかった。まるで物語の世界にいるような感じがしました。

それぞれの場所を巡り歩いて感じたことは日本が本当に綺麗な国であるということです。この綺麗な国にいる間、私は色彩にとても敏感になりました。例えば化粧品の色使いです。日本に行く前、私は全然化粧しなかったけど、日本の街を歩いている時に見かける女の子は皆必ず化粧しています。だから、私も化粧を始めました。化粧することによって人に好感を与えられるということが分かり始めました。そして、ご飯の作り方も習いました。私は女の子なのに掃除や料理など全然できなかったけど、日本に来てから毎日自分でこれらの家事をしました。将来いい女にならなきゃとあの時はそう思いました。でも残念なことに今中国の家に帰って、また元に戻ってしまいました。日本にいる時、日本の学生さんにいろいろお世話になりました。私たちの寮に来てくれて、遊びにも付き合ってくれました。いろいろ話し合う中で、言っている事が通じない時もあったけど、気持ちは言葉なくても通じるのだと信じています。また大学際の時、彼らは私たちを助けてくれて、私達の催し物である中華茶館は大成功でした。あの時のうれし 14 さはいつまでも忘れられません。

今の私は日本に行けて本当に良かったと心からそう思っています。日本の先生方、友達などいろいろな人と出会えてよかったです。もう二度と会うことはないかもしれないけど、一生に一度きりの出会いであったと思うと尚更会えて良かったという気になります。

また日本でいろいろなことを初めて体験することができました。親元を離れての自炊生活や家族のいない中で初めて過ごす旧正月等等…。この半年間で私は大きく成長したと思います。

滑走、離陸、飛行

日本語学科0401班 繆 嬋

飛行機は滑走して、離陸して、空に飛び立つ。私の大学時代も、三年の努力と準備で、この6ヶ月の交換留学のチャンスを勝ち取った。工商大学、先生方そして両親と離れて、自分の期待や夢を胸に抱き、憧れの日本へと飛び立った。

この短い半年の中で私たちは寂しさやホームシックなど外国生活の苦しさを時々感じたが、周りの新しさと充実感はすぐに私たちを楽しい勉強と生活へと戻らせた。

四天王寺国際仏教大学で日本文化論、中日通訳、経済常識などの科目を勉強して、日本語能力にも、日本についての知識にも、もっと自信を持つようになった。授業でとても厳しい南谷先生はいろいろな本や雑誌を贈ってくださったり、何回も私たちの論文や宿題を直してくださったりした。今は本当にありがたい気持ちでいっぱいだ。矢羽野先生はいつも親切な笑顔をしておられて、授業でも生活でも皆と仲良くなった。何でもきちんとする高橋先生は皆の希望した内容を真面目に準備して教えてくださった。皆の聞き取りや読解、作文能力も上級日本語の授業を通じ、進歩してきたと信じている。熱血の中原先生はいつも無味乾燥な経済循環や金融危機を面白く皆に伝えてくださった。忘れられない元気さだ。いろいろすばらしい先生方のおかげで、皆ずっと頑張ってきて、期待に背かないような成績が取れたと思う。

国際交流センターの村上センター長、氏家課長、夢田さん、三輪さんは私たちの留学生活を充実させるために、職場以外でも「サービス残業」をたくさんしてくださり、皆に家族のように信頼された。滞在中、私たちのわがままと油断によってすっかりご迷惑をかけたが、国際交流課の職員たちはいつも親切に手伝ってくださった。私も他の留学生たちのように、日本語能力を高めるために、また日本各地を旅行するために、授業以外の時間を利用して、寮の近くの藤井寺特別養護老人ホームにアルバイトに行った。園長は長い時間の面接をして、初めて外国人のバイトさんを採用した。老人ホームの仕事は大変だし、老人たちと介護たちの連絡や報告もちゃんとしなければならないし、初めての時、次長も主任もすごく心配してくれた。いつも「慣れますか」、「行けますか」と聞いてくれた。私は一生懸命仕事をしたが、介護の経験がぜんぜんなかったし、老人たちの性格も知らなかったし、何回もやめようと思った。しかし、外国で「中国人は駄目だ」とか絶対に言われたくないから、頑張って最後まで続けた。1ヶ月後、私は老人ホームの仕事に詳しくなった。老人たちが手招きしたら、私はすぐ欲しい物が分かるようになった。5ヶ月ぐらいのバイト経験のおかげで、一緒に仕事をした介護たちや老人たちと仲良くなった。いろいろな人生の哲理を教えてくれるお婆ちゃんたちは私がすぐ中国に帰ることを聞いて、涙をぼろぼろ流した。介護たちは心暖まるアルバムを作ってくれた。日本に行ったばかりの時、日本人というと冷たいイメージを持っていた。しかし、今の私から見ると、人間は一緒だ。私が正直に精誠を込めて日本人と付き合えば、相手も心の戸を開けてくれる。

帰国してから、もう1週間だ。日本の先進技術や礼儀作法などは中国人にとって勉強に値する。もうすぐ卒業して社会に入る私にとって、この半年は専門知識を高めることができ、肌で感じた日本の感触はこれからの人生でもきっと役に立つに違いない。

日本はすばらしい国だ。高層ビルが林立している新宿、山が赤く染まる紅葉、立派な世界遺産の姫路城……。さまざまな画面が今でもはっきりと私の脳裏に刻まれている。滑走して、離陸して、空に飛び立つ私はこの美しい思い出を連れて、またあの笑顔と汗を残した島国に行くだろう。

思い出せば

日本語学科0401班 王 琳 「光陰矢の如し」と言うように、半年間の留学生活が知らず知らずのうちに終わってしまった。この半年間を振り返ってみると、とても充実した時間だったと思う。日本語を三年間も勉強したけど、今まで日本語を実際に話す機会が多かったとは言えない。授業や日本語コーナー以外に、日本語を話すチャンスはほとんどなかったと思う。留学のおかげで、思いっきり日本語を話す機会を手に入れることができて、本当にうれしかった。私は日本に着いたばかりの日、迷子になってしまった。「すみません。ここに行きたいのですけど」と小さい声で地図を見てもらった方にそう言った時、胸がどきどきした。「ああ。まっすぐに行って、二番名の信号を左に曲がったらすぐ目の前にあるよ」と教えてくれて、私は「ありがとうございます」と答えた。私にとってこれは初めての海外生活であり、全て順調にいくと思っていたのだが、着いた翌日たこ焼屋さんの早口関西弁にすっかり参ってしまい、自分の考えは甘すぎたと分かった。自分の日本語はまだまだで勉強すべきところがいっぱいある。関西弁は東京弁と比べ、否定形の言い方やアクセント、イントネ-ションなどの面で違いがある。始めは全然わからなかった私だが、この半年間で関西弁もちょっと分かるようになった。それは優しい関西の方々のおかげだと思う。通じなくて焦っているこの私を見て、向こうはいつも微笑みながら、普段よりもゆっくり話してくれたり、略語や外来語を丁寧に説明してくれたりしたからだ。この半年間、友達もいろいろできた。其の中には若者ばかりではなく、お年寄りもいる。若い友達は主に大学祭の時できた。日本の大学祭というのが私には何となく分かるようでありながら、今一ピンと来ない感じがあった。それは私が見たドラマやアニメの中に大学祭と関わるシーンがよく出てきて知ってはいたものの、実際に参加したことがなかったからだ。せっかくのチャンスだし、その雰囲気を是非感じてみたかった。そして、中国に関する情報をできるだけ多く日本人に伝えるために留学生の私たちは参加させていただいた。先生たちは初めて大学祭に参加する私たちの為にわざわざボランティアの学生を募集してくださった。テーマの決定から最後の片付けまで、彼らは積極的に助けてくれて、私たちの催し物である「中華茶館」は大成功だった。一緒に道具や服装を準備したり、見所を考えたり、会場を飾ったり、ボランティアで集まった日本の学生達の創造力にはとても驚かされた。私たちの方が先輩なのに私たちの方が遥かに不器用で恥ずかしかった。そして、ディスカッションする時まめにメモを取る姿も、またリハーサルの時根気よく敬語の正しい使い方を教えてくれる姿も印象深かった。そういう一所懸命やる姿に深く感服させられた。他人の意見に熱心に耳を傾けながら任された仕事を真面目にやる彼らのそういうところを私たちも学ぶべきだと思った。藤井寺には日本語教室がある。そこではボランティアで集まったお年寄りたちが日本語の話せない在日外国人に日本語を教えている。またそのお年寄りたちも外国人から外国の情報をいろいろと得ているようだ。それは一種の異文化コミュニケーションとも言えるだろう。日本語教室のおじいさんやおばあさんたちはみんなやさしくていい人たちだった。一緒に伊勢神宫に行った時伊勢神宫のことを教えてくれたり、クリスマスの時料理を作ってくれたり、帰国の前には送別会を催してくれたりして、家のような暖かさを感じさせてくれた。本当にありがたかった。人生は一期一会と言っても、人と人の縁が結ばれればそれは一生の宝だと日本語教室のおじいさんが言っていた。私もそう思っている。今は日本にいた時のように頻繁に会えなくても、インターネットを通じて連絡している。今回の留学で、私は生活の勉強もした。17 今まで、料理がほとんどできなかった私はカレーやチャーハンもできるようになった。帰国してから、両親に作ってあげて、両親は大変喜んでくれた。この半年間は両親の元から卒業する準備期間であったとも言えるかもしれない。この半年間いろいろな方にお世話になった。それらの方々の恩に直接報いるチャンスがないかもしれない。しかし私もいつか誰かの為に奉仕し、誰かを助ける事を通して、この恩に報いたいと思う。それを心に刻んで、これからも頑張っていきたい。

半年の留学を振り返って

日本語学科0401班 王 洋

帰国して二ヶ月。親戚と友人に会う時によく「日本での留学生活どうだった?」と聞かれる。日本での半年の生活を思い出すと、僕はいつも懐かしく思うのだ。その新鮮さと楽しさと孤独、それに感動に溢れた日々を。

日本に到着し、日本の土を踏みしめ、日本の空気を呼吸している僕は、学校の宿舎行きの車に乗っている間中、ずっと夢のような青い海を眺めていた。僕は海を見るのが初めてだったのだ。興奮の中にも少し緊張。なぜなら、これは僕にとって初めての異国体験だから。20年間暮らしていた母国を離れて、異国で生活するのは人生の中で初めての体験である。「僕は今後の半年の間に、どのような学校で勉強するのか、どのような環境に住むのか、そこの先生やスタッフはどんな人たちなのか、それに日本人の生活様式と飲食習慣に慣れることができるのか」などの沢山の疑問は僕を不安な気持ちにさせた。ラッキーだったのは接待していただいた国際交流センターのスタッフたちがとても親切だったことだ。空港まで迎えに来ていただいたお姉さんの笑顔は素敵だった。そしてもう一人のスタッフさんは僕らが車から降りた後、部屋までスーツケースを運びながら、僕らの住む環境について紹介してくれた。結構ユーモアな人だった。話の中に冗談が多かった。まるで初めて会うという感じがしなかった。これは僕の心の底にある不安感を少し和げてくれた。その後の半年を通じて僕の第一印象は正しいと分かった。国際交流センターのスタッフたちと学校の先生たちは皆親切でまじめだった。僕らの半年の留学の間に色々細かいところまで助けていただいた。最初の頃は大変だった。見知らぬ環境の中で生活するのは確かに大変なことだ。バスや電車の乗り方、日常用品の使い方、ごみ処理のやり方、すべて分からなかった。コンビニの自動販売機で電話カードの買い方さえ店員さんに聞かないと分からなかった。その上、学校はまだ始まっていないので、暇なときはいつも家族や学校の友達に会いたくなるのだ。孤独感が強かった。

学校が始まってから皆忙しくなった。僕も少しずつ日本での生活に慣れてきた。新しい学習環境は留学生の僕らにとっては新鮮で面白かった。三年も勉強した言語や文化の知識はいよいよ役に立つのだ。「暇な時が多すぎると皆退屈じゃないか」と学校側が考えてくれて、僕らの意見と合わせて授業の数を予定より少し増やした。その授業の中で、五つくらいは日本人の学生たちとともに受ける。僕が一番難しいと感じたのは日本文学史Ⅱと日本文化論。理解するのに時間がかかる。通訳理論と実践や上級日本語及びビジネス日本語などは留学生向けの授業だから、人数が少ない。授業の雰囲気は比較的楽だった。運動や友達作りのため、僕は放課後の時間を利用して学校のバスケ部に入った。毎週クラブのメンバーたちと二回練習していた。週末は時々彼らと関西のバスケのリーグ試合に参加し、各学校のクラブ文化を体験し、関西周辺の学校で遊びまくる。年末の頃も彼らと忘年会に参加した。

日本に着いた二ヶ月後僕はアルバイトを始めた。日本料理店だった。店長は楽天的な性格で、いい人だった。休憩の間はいつも僕とおしゃべりしていた。僕に中国の社会事情を尋ねた。それによく生活の中であったことについてアドバイスしてもらった。お正月の時もわざわざ家まで招待してもらった。映画も誘ってもらった。初めてのバイトなので、僕も普段自分のできるかぎり頑張っていた。餃子を作るのは僕には苦手だったが、帰国直前、感謝の気持ちを込めて中国式の水餃子を作ってあげた。それに、中国ではいい縁起を象徴 19 する「中国結」という飾り物をあげた。店の人は特色のある調味料やおやつを送ってくれた。最後の日は皆涙を流しながら別れを惜しんだ。とても感動的だった。今だに時々店のたまご丼が食べたくて仕方がない。

留学の半年はバイトの給料で沢山の旅をした。たとえば、京都の金閣寺、清水寺、平等院、宇治上神社、奈良の橿原神宮、三重の伊勢神宮、大阪市内の大阪城…。それ以外に東京と神戸に旅行に行ったこともある。僕が一番好きなのは清水寺。秋の紅葉は今までの人生で見たこともない美しい赤色だった。大学での活動にも沢山参加した。一番印象深かったのは大学祭。僕らは日本人の学生たちと中華茶館をやった。中国の女の子たちはチャイナドレスで、日本人の女の子たちは浴衣の格好をして、国際交流センターのスタッフたちと学生皆の努力の下で、中華茶館は大成功だった。お祝いの為、その後皆でたこ焼きパーティーをやった。

半年の留学生活は充実していたけど、とても忙しかった。でも、本当に勉強になったと思う。つらい事もあったが、楽しかった。

帰国直前、沢山の人が送別に来てくれた。感動的だった。親切な学校の先生方、交流しに来た学生たち、それといつもお世話になっていた国際交流センター、教務課、総務課、図書館のスタッフさんたち及びバスケ部の友人たち、バイト先の人たち、それからいつも国際交流活動を行っていただいた藤井寺市国際交流協会のスタッフたちに、心から感謝している。

帰国前最後の夜。一人で帰りの最後の電車に乗っていた。車窓からの夜景はいつもと同じように美しかった。気持ちは言葉で表せないほど複雑だった。半年はあっという間に過ぎってしまった。桜満開のキャンパスを見るチャンスは結局なかった。残念だった。しかし、半年の短い留学生活は桜が散るのと同じようだった。花びらが枝から離れて散ってしまうのは確かに残念だが、それより重要なのは開花してから散るまでの短く美しい過程なのだ。それで僕は満足できた。そんなに悲しく思わなくなった。

将来またいつか会えることを期待している。最後に心から挨拶したい言葉がある。「どうぞお元気で!ザイジェン!(またね)」

「さようなら」から「ただいま」へ

日本語学科0401班 徐 哲紋

2008年3月1日、私たち14人はアモイ航空MF875便の飛行機に乗って杭州に帰りました。これで半年の留学生活は完全に終わりました。

帰国する前、私たちは忙しい日々を送っていました。部屋掃除、送別会、帰国手続き、お土産買いなどなど。本当に心の整理の余裕もないぐらいでした。お世話になった一人一人にちゃんと「さようなら」、「ありがとう」を言うこともできませんでした。飛行機が離陸した途端に日本への名残惜しさがこみ上げてきました。

正直、大学四年生の時に交換留学するなんて今でも信じられないと思います。去年、王宝平先生がそのビッグニュースをみんなに知らせてくれた時のエピソードを今でも覚えています。当時はクラスで誰もが皆信じられないといった表情でした。あれから四ヶ月、申し込み、選抜、出国手続き、一歩一歩進んできて、最後にビザを取った後ようやく自分が留学へ行くことを実感しました。私にとって、今回は日本との初めての出会いです。こんなに長期間家を離れるのも初めてです。ですから、どこに行っても、何をしても全部新鮮で、新しい物ばかりの毎日でした。日本で初めてスーパーに行った時、様々なお菓子に惹かれた私はルームメートに料理をするための物をまず先に買うべきだと窘められました。日本で初めて旅行のコースに悩んだ時、先生が路線の調べ方を教えてくれました。日本で初めて地震に遭い、興奮している矢先に、阪神大震災の遺跡を見て改めて命の大切さを感じました。

私は今回の留学を旅だと思いたかったんです。短い半年の間にたくさんの名所を訪れました。大阪城公園はもちろんですが、奈良公園、伊勢神宮、清水寺、神戸の中華街、北海道の流氷、旭山動物園、東京ディズーニーランド、富士山、伊豆半島などなど。日本人が誇りに思う場所には皆私の足跡が残っています。旅を通して、自分は今日本という社会に、そして日本人という集団に属して輝いているということをしみじみ感じました。

たとえ日本語学科の学生でいつも日本のことを勉強しているとしても、実際に日本に行けば、やはり想像以上のことがいっぱい出てきます。

例えば、日本人はすごい恥ずかしがりやであること。来る前もずっと知っていたけれど、まさか若者までそうだとは知りませんでした。それに、日本社会で活躍しているお年寄りのこと。一番印象深いのは、藤井寺国際交流協会の皆様です。みんな、できるだけ自分の力を出し、国際交流に非常に熱心で、特に私たち中国人の留学生と熱心に付き合ってくれたことは本当にありがたいと思っています。

中国に帰ってきてもうすぐ2ヶ月になりますけど、正直に言って初めて日本に行った時よりも、むしろ今の方がこちらの環境に慣れ親しめないようで不自然です。特にあのきれいな空気が懐かしいです。バスを待つ時に日本のバスが時間通りに来ることをいつも思い出しています。今の中国は他の国に習わなければならないところがまだたくさんあります。もちろん、人それぞれ自分なりの欠点があるわけですけど、自分の短所から目を離してしまったら、自分も上達できないはずです。他人の長所を見つけて、自分の欠陥を補ってこそ、国も人生も発展できると思います。

帰国してから、まだたくさんのことをやらなければなりません。今回の留学は終わりましたけど、私たちの人生はまだまだ続いていきます。「人生は不思議です。」一人の先生が日本に戻る時こう言いました。何も分からないままで、一年後日本へしかも彼女が住んでいる近くに、留学に行きました。ですから、今の私はその人生の不思議さに興味を持っています。次はどこへと。

ただ一つ信じているのは、日本との付き合いはこれからです。だから、さようならではなく、よろしくお願いします。最後に若干遅いけれど、半年ぶりの杭州にも「ただいま」って。

私の日本留学

日本語学科0401班 叶 楠

税関で検閲を受けて、飛行機に乗りました。疲れたせいかすぐ寝始めました。再び目覚めると、もうすでに海の上にいました。キャビンアテンダントのアナウンスの声が聞こえてきました。ついに日本に着いたということが分かりました。

初めての留学生活に対する憧れと心配の気持ちを同時に心に抱き、荷物を持って飛行機を降りました。日本に対する第一印象は「静」でした。荷物を待っている人がたくさんいたものの、がやがやと騒ぐ姿はあまり見えません。友達と話す時もわざと声を小さくして話します。大学で授業を受けた時よく先生方から日本の電車はとても静かだよと聞いていたけれど、実際に乗ってみると、本当にそうでした。偶に騒いでいる若者たちが見えるけど、皆本を読んだりメールをしたり居眠りをしたりしていて、確かに静かです。日本の住宅街も静かで人があまり多くなく、夕方にお年寄りが犬を連れて散歩している姿がよく見えるくらいです。一番驚いたのは、日本人はけっこう犬を飼っていると思いますが、犬の吠えている声があまり聞こえません。その原因を友人と何度も考えましたが、残念ながらなかなか答えが見つかりませんでした。

国内にいた時も日本文化などの授業を受けたけれど、実際こちらに来て、毎日の新しい発見を楽しみにしていました。もし2006年の夏の旅が観光であるなら、今回のテーマは生活で、些細なことで日本を感じ、日本人の生活を体験することです。大阪の冬は杭州と同じで寒かったです。毎朝、厚着してもぶるぶる震えながら学校へ向います。そんな時、よく見かけたのは真冬に半ズボンを履いて生き生きとしたとても元気な小学生や中学生たちです。昔新聞で見たあることを思い出しました。日本人の親は冬に生まれたばかりの子を水にいれて、その子の根性を鍛えます。中国の親なら絶対子供にできるだけ多くの服を着せるでしょう。それは中日の家庭教育の違いではないかなと思っています。

また、日本の街を歩いてみると、時々着物を着ている女の人の姿が見えます。美しいと思う一方で、ちょっとうらやましいです。日本の代表的な服といえばやはり着物でしょう。結婚式や成人式など正式な場合だけではなく、普通に着ています。中国の代表的な服というと必ずチャイナドレスと答えるでしょう。残念ながら、中国では普段の生活の中でチャイナドレスはほとんど着ません。また、京都や奈良に行くと、すごく日本の伝統的な美しさが味わえ、伝統的なものと現代的なものが意外と良いバランスをとっています。そして私が一番感じたのは日本人は細かいところにも気を使うということです。街がきれいで、ゴミがあまり見えないのはもちろんのことです。どこのトイレに行っても、トイレットペーパーがちゃんと置いてあります。切符販売機でも盲人専用の点字があります。普通のお弁当でも必ず花や葉っぱで飾っています。それらは極普通なことですが、もうちょっと考えたら、その裏にはきっと誰かの努力があるはずです。最近、テレビでよくやっているソフトバンクのコマーシャルでも「ぷぷぷっと聞こえたら、相手の方がソフトバンクだと分かります」と宣伝しています。電話をかける時の音にまで気を使っています。だからこそ、日本の商品は世界中に人気があるのだとあらためて感心しました。最後に言いたいことはテレビなどのマスメディアについてです。偶にテレビをつけると、中国のことが放送されます。興味津々で見続けると、残念ながら中国の悪いところばかり流れています。同じく残念なことなのですが、中国の新聞でも日本に関するニュースではよくない面だけを載せることが多いです。マスメディアが事実を報道する一方、意識的或いは無意識的に視聴者の関心を惹きつけやすい悪い側面だけを強調する傾向があるよう 23 です。でもお互いの国の人々は大体マスメディアから情報をゲットし、そしてイメージします。それは両国の人々の交流の障壁になる一つの原因ではないかと私は考えます。この半年間でどれぐらい日本語能力が上達したかはっきり言えないですが、確かに成長していると思います。言葉や知識だけでなく、いろんな面で勉強になりました。日本で初めて作った料理の味はまだ心に残っています。まずかったです。最初の時はフライパンを持って慌てて取り乱しましたが、今は普通に料理ができるようになりました。初めて自転車に乗って家へ向ったこともまだ覚えています。迷ってしまって、近くの坂で何回も行ったり来たりして、家に着いた時外はもう真っ暗でした。でも今は目を閉じても家のまわりの風景がはっきりと頭の中に浮かびます。一人でもよく旅に出て、日本の美しさを味わいました。最初は日本人の友達と話す時とても緊張しましたが、今はぺらぺらとまではいきませんが、普通に会話ができるようになりました。長いようで短かった半年、日本での留学生活がもう終りました。異文化ショックを受けたこともありますが、楽しいことがたくさんありました。やはり日本へ来て自分の目でその国を見ていろいろと体験できたことは本当によかったと思います。

卒業する前の半年にこんな貴重な機会をいただいて日本を感じることができ、心から学院の先生方、日本の先生方に感謝の言葉を申し上げたいと思います。この半年間の思い出は人生の中で貴重な経験だと思います。

私の留学日記

日本語学科0401班 張 叔傑

1月25日(晴)新幹線で東京へ

日本に来て初めて話に聞いていた新幹線に乗り、とても興奮しました。中国国内で「和諧号」に乗ったことはありますが、それともだいぶ違う感じでした。当たり前のことですが、周りは誰もが日本語を話す日本人で、私は中国語を話す中国人だからです。新幹線で約三時間、途中の主要な駅は京都、名古屋、静岡、新横浜で、そして最後に日本の首都――東京に到着しました。東京駅を出て目を向けると、誰もが慌ただしい出で立ちのようでした。日本人に恥じない、毎分毎秒を浪費しない働きマンです。

1月26日(晴)東京めぐり

朝食 お粥定食。初めて日本でお粥をすすり、ザーサイを食べました。故郷の味がしました。郷愁。

チーム活動では第4組に。メンバーは井口光吉、池田昭博、張穎、顧雅芳、金暁環、張叔傑、付穎です。チームで皇居の写真をたくさん撮りましたが、集合写真を撮りそびれました。残念。遠くの東京タワーにカメラを向け、数回「カシャカシャ」。その時、集合の合図が聞こえました。浅草の雷門では26人の集合写真を撮影。「デン」の音にみんなが笑いました。

チームは解散、雷門で北京放送の付さんの取材を受けました。生まれて初めて記者の取材を受けたので、それはそれは緊張しました。取材される感覚というものはこういうものなんだなと思いつつ、これからはもっとうまくできるようになりたいと思いました。自由活動。渋谷109、NHK、代々木体育館前の街頭音楽フェスタ、明治神宮、原宿、レインボーブリッジ、お台場、フジテレビそして観覧車。いずれも外側から一度ざっと見るだけでしたが、日本の学生との交流で、日本の若者の文化をより多く理解することができました。新しい体験でした。中日学生交流会では、おのおの自分の意見を述べて、言いたいことを思う存分言いました。言葉の壁もなく、国籍の違いもなく、若者と若者がふれあいました。一日の東京での体験を全て言葉に出し尽くしました。その後、東京タワーとレインボーブリッジの夜景が見える船の科学館でビュッフェ。幸せ。

1月27日(雤)東京から沖縄へ

3時間ほど飛行機に乗り、ついに那覇空港へ到着。ずっと行きたかった沖縄。気温19度。空気の分子一つ一つに海の匂いが溢れていました。暖かな幸せ。ただいま、沖縄。

1月28日(雤)沖縄

ひめゆり平和記念資料館は、戦後に生まれ育った子供である私たちに戦争の残酷さを教えてくれました。一枚一枚の絵や写真、一文一文の文字に胸が締め付けられ、言葉にできない沈んだ気分に。ただ黙祷を捧げて亡くなった方々の冥福を祈り、世界平和と中日友好を願うことしかできません。

首里城はどこかで見たことがあるような感じがして、古代王朝を夢に描きました。沖縄は中国ととても密接且つ複雑な関係を持つ地域で、ただ生い茂る桜の木の陰だけが、ここは日本だと気づかせてくれました。

海辺では大きな子供も小さな子供も砂浜で思いきりはしゃぎ、駆け回り、写真を撮りました。蒼い空と海、白い雲と砂。夢に見た冬の沖縄をついに自分で体験できて、本当にこの上ない幸せでした。誰もが喜び、はしゃいでいました。砂浜全体にさわやかな笑い声が響いていました。すばらしい風景を享受すると同時に、私たちも風景の一部になっていました。食後、波の音をバックに私たちは自由討論を行いました。日本について、訪日について、よいところ、改めるべきところ。いつの間にか1時間半も経っていました。余韻は尽きません。最大の成果は「川流会」を結成したことです。私たちの友情も「川流会」とともにたえず育っていくと思います。

1月29日(曇)神戸

10:05離陸、さようなら、親愛なる沖縄。大阪に到着…。有馬温泉は、日本三大温泉の一つです。日本人の温泉好きは来日のだいぶ前から耳にしていました。今回、天然の温泉を自ら体験できたことは、本当に私たちを興奮させました。唯一残念だったことは、温泉玉子がなかったことです(笑)。三十分ほどお湯につかると、バスや旅の疲れが吹っ飛びました。日本人が何故ここまで入浴好きなのかがやっと理解できました。一日の仕事から帰ってお風呂に浸かると、仕事の悩みや疲れを解消できます。入浴の習慣がない国の人も試してみることはできるし、効果的だろうと思います。

1月30日(晴)京都

金閣寺。天気予報では雪が降るとのことでした。雪が大好きな私としては甚く期待していました。金閣寺は前にも一度、訪れたことがありますが、白い雪が黄金の屋根を覆い、水に映える金閣には別格の風情があるに違いありません。しかし天気は思うようにならず、雪景色の中で金閣寺を見たいという期待は空振りに終わりました。ですが、皆と一緒に金閣寺を見学するのは慰めにはなりました。まあ楽しかったからいいです。清水寺。日本には大小の寺院がたくさんありますが、清水寺はそれでも一見に値するところです。景色は同じ景色ですが、見る人は違います。今こうして清水寺を見学する時の気分は2年前とはっきり違い、単純だったものがより複雑になりました。まさに「毎年花は同じように咲き、年々人は変わってゆく」ということです。

以上のシーンは留学生活のほんの僅かな一部分です。日本滞在中の半年間、一日一時一刻一分一秒も、たくさんの人と事物を記録すべきだと思います。四天王寺大学の先生方、国際交流課の職員さんたち、学園祭の「中華茶館」で一緒に盛り上がった日本人の学生たち、バイト先の同僚たち、ずっとたこ焼きを奢ってくれたおばちゃん…。私が知っているそしてまた私のことを知ってくれた皆さん、ありがとうございます。皆さんと出会ったことこそ日本での最高の思い出です。海の向こうのもう一つの国で出会った人々をきっと忘れません。きっと、ずっと、永遠に。

僅かな半年でしたけど、日本と日本文化を体験し、深く理解した外に、どうすれば様々な日本人と付き合うことができるかもよく分かり、同時に日本人との触れ合いにより一層の自信が持てたと思います。日本での生活の断片的なものまで記録できればと思いますが、文字にするとここまで無味乾燥な文になってしまいます。けれど、記憶の奥に大事にしまいこまれたこれらの記録を私は永遠に忘れることはないでしょう。

半年の留学生活を憶う

日本語学科04甲班 周 倩倩

時間が経つのは本当に早く、半年の留学生活はあっという間に過ぎてしまいました。留学のチャンスを得て、異国の生活を体験し、自分はなんてラッキーなのだろうと思っています。この半年の生活を有意義に過ごす事ができて、いろいろな人に出会って、今まで体験した事の無い事をたくさん体験して、昔はテレビでしか見る事のできなかったものを自分の目で直に見る事ができて本当に良かったです。日本人の先生方と学生さん達と一緒にいろいろないい思い出を作りました。今振り返ると、本当に懐かしく思います。

到着したばかりの興奮

9月10日、私たち14人は関西国際空港に到着し、以前訪問し時と同じく、かわいくて親切な三輪さんが空港まで迎えに来てくれました。高速道路周辺の景色は前回の訪問時と一緒で、空はいつもの青で、空気はとてもおいしかったのを覚えています。この半年の留学生活に対してずっと憧れを胸に抱いていた私はその時非常に興奮していました。和交寮に着いて、私たちは生活設備が完璧に用意されていることに気づき、日本に着いた第一日目から日本人の周到さとまじめなやり方を深く感じました。学校の授業が始まるまでにはまだ時間があったので、到着後の数日間は学校と寮の周辺をよく散策しに出かけました。また国際交流センターの先生が私たちを連れて銀行の口座を作りに行ってくれ、また私たちは中古の自転車と携帯も買いました。そうしたら、生活ももっと便利になり、活動の範囲も幅広くなりました。日本に着いたばかりなので、いろいろな新しいものに好奇心を抱きました。そこから、私たちは一歩ずつ日本人の生活に慣れるように頑張り始めました。

ファッションを感じる

学校が始まりました。静かなキャンパスは活気に溢れるようになりました。キャンパスではハイヒールを履き、髪を黄色く染めて、綺麗に化粧をしている女子学生達がどこに行っても目に入りました。日本は女の子だけでなくて、男の子もとてもお洒落です。そんな若者達を見て、いつか見たファッション雑誌に自分が入り込んだような感じがしました。心斎橋は大阪で一番賑やかなところで、お洒落な若者がいっぱい集まっています。ファッションの為ならどんなに暑くても帽子を被って、長いブーツを履いて、寒さや暑さに構わず、自分のかわいさ、カッコ良さをアピールするそんな光景を見た時、さすが日本はファッション大国だと思いました。私の中では日本はファッションの代名詞と言ってもいいくらいです。

大阪弁

大阪にいるから、学校でも公共の場所でも耳に入ってくるのは全部大阪弁です。最初は分からなくて、慣れなかったのですが、帰国前には私もついに大阪弁で喋ることもありました。

十一月の大学祭

大学祭。前はただ日本のドラマで見たことがあっただけでしたが、やっと自分も体験できることになりました。大学祭前には、学生さんが学校のあちこちに集まって、相談したり、看板を作ったり、大学祭のためにいろいろ準備していて、やはり日本っていうのは集団主義だなあとつくづく思いました。もちろん、私たち14人も国際交流センターの先生 27 方と何人かのIBUの学生さん達のおかげで、「中華茶館」というイベントを行うことができました。中国結、龍井茶、向日葵の種、月餅、春聯、飾り物など、また浴衣を着ている日本人の学生さんとチャイナドレスを着ている私たちは開催の日にいろいろな市民と学生さんを引きつけました。参加してくれた人数は私たちの予想を遥かに超えるものでした。今度のイベントによって、日本には中国の文化と歴史に興味を持っている人がいっぱいいるということが分かりました。またこのイベントの成功ぶりを見て、悠久な歴史と文化を持つ自分の祖国中国を誇らしくも思いました。中華茶館は大成功でした。

伊勢神宮の見学

藤井寺のおかげで、私たちはバスツアーで伊勢に見学に行きました。十一月はちょうど秋なので、赤に染まり始める紅葉と清らかな川がお互いに引き立てあっています。伊勢神宮は二十年に一回遷宮します。式年遷宮と呼ばれます。内宮へと向かう通路で、日本の伝統文化を感じながら、まわりの立派な木々を楽しんでいました。一緒に参加している藤井寺の市民は皆すごく親切で、バスで私たちに話しかけてくれて、日本の文化と歴史についていっぱい教えてくれました。この旅で、日本人の市民文化も体験しました。

アルバイトの生活

日本の学生はほとんど皆バイトしています。社会経験を積めるだけでなく、新しい人間関係の形成や責任感の向上にも大いに役立ちます。12月の中旬に私もバイト生活を始めました。忚募したところは24時間営業のコンビ二です。テキパキと仕事をやっている厳しい店長、優しいマネージャ、高校生の女の子と夜勤で働いている背の高い男の人数人が私の仲間でした。まさに「ファミリーマート」という店の名称に相忚しい家族的な雰囲気でした。店の皆さんは私に非常に優しくしてくれました。経験がまったくない私はお釣りを間違ったりとか、お客様が欲しいものが探せなかったりとか、よくミスをしました。でも店の人はいろいろ親切に教えてくれて、私のミスを直してくれました。そのバイトのチャンスを与えてくれた店長、そしていろいろ教えてくれた店の皆さんが今ではとても懐かしいです。三ヶ月にも満たない短い期間でしたが、お互いの心が通じ合えたと思います。

半年の間いろいろな人と出会って、その中の一部の人とは一期一会かもしれないですが、私はきっと彼らのことを私の宝物として、忘れずにすっと覚えていることでしょう。

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