口译笔试作业

2024-10-08

口译笔试作业(共4篇)

1.口译笔试作业 篇一

译考试的脚步越来越近了,考前两周的时间里,准备考试的你到底应该准备些什么呢?如果之前还没有开始好好复习,那从现在开始临阵磨枪吧!不到最后关头,绝不浪费任何复习机会!1.首先做一整套真题。

有很多同学复习的时候会选择分部分进行练习,这并不是不可取,但冲刺阶段,建议大家至少留两套完整真题。第一套在考前一个月左右做,另一套在考前三天到一周左右的时间做。在这之前,大家通过上课、做练习已经对自己的薄弱环节有一定的了解了,那么经过一段时间的积累,现在进展如何了呢?做这一套真题,帮你了解前一阶段的学习成果,细致定位薄弱环节:比如之前知道自己听力部分是弱项,经过一段时间的努力,Spot Dictation 错误率降低了,选择题基本没什么大问题了,句子听译也有明显的改善„„那么接下来就要研究一下错题,比如看一下Spot Dictation是因为单词听不清、不会拼而扣分还是因为跟不上而扣分。花相对多的时间在失误多的地方,不要盲目做真题、模拟题。此外,这个时候做完整的真题,要尽量掐好时间,以便在后面几周的复习中,针对性地加快做题速度。

2.弱项重点击破。

对自己的薄弱环节有了更清晰的认识之后,下一步当然是要针对性地突击了。上面也提到了,花相对多的时间在薄弱环节上,并不是说其他部分就可以放心不练了。手边有模拟题的同学,这段时间可以每天或者每两天做一套真题,然后针对薄弱环节着重练习。练习材料可以是教材,也可以是模拟题分项训练。总之,每天每部分都要练习到,薄弱部分多练一遍,坚持下去。

3.整理错题及知识点。

做了大量的练习,不进行错题整理以及笔记复习是万万不行的。练到后来可能速度是上去了,但正确率却迟迟上不去。所以,不论是平时练习还是考前冲刺,整理环节是必不可少的。错题整理一般包括单词和知识点的整理。Spot Dictation 以及听译部分的生词以及词组必整理,阅读理解部分感觉常出现但老是记不住的单词必整理,翻译部分生词以及重要词组必整理。此外,还需要注意整理一些小技巧,比如Spot Dictation中碰到的单词的连读、弱读,多整理一下其中的规则自然而然会有领悟,还有要注意翻译中用词的对比,比如说“加强”一词,就可以有strengthen, enhance, promote等等多个词与之对应,多积累一些这样的词在汉译英中才能避免用词重复。

4.考前两三天回顾。

这个时候再做一套真题,一是对冲刺阶段的学习成果检查,二是让自己适应考试氛围,所以这次的真题建议可以选择和真正考试相同时间段进行练习,及时调整好状态,积极应考。此外,参加考试必备的准考证、身份证、收音机、耳机、电池、笔等也需要仔细检查,提前做好准备。

2.日语中级口译笔试 日译中 篇二

毎年3月になると、春風が吹き始め、人々の間では必ず「今年は桜がいつ満開になるかなぁ」という話題が出てきます。3月下旬に入ると、毎日テレビなどの「桜前線」の報道を聞き、人々は首を長くして、真冬の後に一番早く咲いてくれる花の満開を待ちます。

桜は日本の国花であることはよく知られています。多くの人が私と同じように日本に来てから、自分の目で満開の桜を見てはじめて、桜とは花が咲いた後芽が出る植物であることを知り、日本人がこんなにも桜に熱狂するのだということを知ります。

桜満開のとき、日本列島はピンク色に染められています。桜の柄や色など衣食住の至るところで見られます。特に花見の名所などは、他よりもっと早く桜色に染められています。

幼いころ、親に連れられて花見に行くとき、桃や梨の花など花林の中を散歩しながら、花見をしていました。しかし、日本ではみんな桜の下に座って、弁当を食べたり、お酒を飲んだり、話をしたりして、ときには歌ったり、踊ったりもしています。特に不思議なのは普段まじめな中高年の男たちが桜の下で子供のように有頂天になって踊ったり歌ったりすることです。帰国の時、「なぜ日本人は桜の下でしかリラックスできないのですか。」と何回か友達に聞かれたことがあります。私もこのような質問をまわりの日本人の友達に聞きました。みんなからはほぼ同じような回答をもらいました。「やさしい桜は一輪が目立たないのですが、一面になると本当に感動を与えてくれます。桜は日本という国だけでなく、日本人の心も表しています。桜の下に座ってはじめて安心感を覚え、本当の自分が見つかり、一年間溜まったストレスが解消できます。」

日本で何回か花見をしたあと、友達の言っている日本人の桜に対する恋しさの解釈が少しずつわかってきました。自分もそれに共鳴を覚え、桜に対して恋しい感情が芽生え始めました。

樱花时节

每逢三月,当春风刚刚吹动时,人们便开始了每年此时必谈的话题:“今年的樱花哪天会全开呀?!”进入三月底,在媒体每天的「樱花前线」的报道中,人们更是好象坐立不安似的等待盼望着严冬后春天第一花的到来。

许多人都知道樱花是日本的国花。我知道有许多人和我一样,来到日本亲眼看到樱花盛开的情景,才知道樱花是属于那种先开花后长叶的树种,才了解到日本人对于樱花如此执着地怀恋。

在樱花时节里,整个日本仿佛是都被染上了粉红色一般,无论是衣、食、住,到处都可以看到樱花的图案、樱花的颜色等。尤其是在赏樱的“宝地”之处,更是比其它地区更早地染上了樱花的颜色。

记得小的时候,在春天被父母带去赏花时,在开满了桃花、梨花的花林中,边散步边赏花。而日本则是大家坐在樱花树下,边吃「弁当」,边喝着酒,高谈阔论,有时还会又唱又跳。尤其是平日那般严肃认真的中、高年日本男人们在樱花树下,仿佛是顽童般地手舞足蹈、引亢高歌„„。回国时,多次被朋友问起:“为什么只有在樱花树下,日本人才会放松自己、打开自我?”我也曾将此等问请教于我周围的日本朋友们,大家几乎是同样地回答我:“温柔的樱花,一朵看上去并不起眼,但一群看上去会令人激动。樱花代表日本,更代表着日本人的心,只有坐在樱花的树下人们才能感受到心安、找回自我,才会将压抑了一年的情绪释放出来。”

经过在日本的几次赏樱后,我慢慢地理解了朋友们所讲的日本人怀恋樱花的解释。而且自己也被感染,渐渐地蒙发了对樱花的怀恋之情。

日漢対訳読物 02 新米

新米

日本のお米は世界で一番おいしいお米かもしれない。また秋の新米は、さらにみずみずしくいっそう美味しいものだ。毎年新米が出回るころ、料理店や米屋はみな、黄金の稲穂を描いた紙に大きな字で「新米入荷!」と書いた広告を貼り出す。

最近、白血病を患っている前千葉大学の留学生、劉学東が私に新米にまつわる話を聞かせてくれた。電話の向こうで、彼がぽたぽたと涙をこぼしているのが聞こえた。

劉学東は言った。彼には篠崎栄行さんという50すぎの日本人の闘病仲間がいた。彼も同じ白血病で、一緒に入院していたとき、彼は劉学東にいつも飲み物を買ってくれるなど、とてもよくしてくれた。劉学東が遠慮すると、彼は劉学東にこういった。「あなたは学生で大変でしょう、私は保険に入っていて入院すると毎日2万円くらい出るんです。」篠崎さんの実家は米の名産地である千葉の東金で、毎年新米が出ると、彼はいつも劉学東に10kg送ってくれて、日本人と同じように新米の芳醇な香りと豊作の喜びを分かち合わせてくれた。彼らはこの病気になると先はそう長くはないことを知っていたが、お互いの友情によって楽しく生きているのだと話していた。

篠崎さんは去年6月退院したが、今年の1月病状が悪化し再び入院した。このとき彼はすでに危篤状態で、薬ももう効かなくなっていた。7月20日、劉学東は妻の陸新紅を連れて彼の見舞いにいった。自分がもうそう長くないと知っている篠崎さんは陸新紅も不治の病を患っているらしいと聞いて、陸新紅に言った。「あなたはきっと元気に生きられますよ、天国に行ったら私が神様によくお願いしておきますから。」

8月2日、劉学東が再び篠崎さんを見舞ったとき、彼はもうとても弱っていて、身の回りの世話をしてくれている姉にむかって、「わたしはもう長くはないが、姉さん、忘れないでくれよ、新米が出たら必ず劉さんに送ってくれよ。」と言った。

8月19日、篠崎さんは静かにこの世を去った。臨終の際、彼がとても弱弱しい声で劉学東にいった最後の言葉は、中国語の「謝謝」だった。

9月12日劉学東と陸新紅は、篠崎さんのお姉さんから送られてきた新米と一通の手紙を受け取った。手紙には「弟が入院中は大変お世話になりました。ほんの気持ちばかりですが新米をおおくりします。」とあった。

中秋の満月が水のような輝きを放っているなかで、またみずみずしい香りを振り撒いている新米のなかで、二人ははらはらと涙を流した。篠崎さんは静かに逝ってしまったが、彼がもっとも残念だったのは二人に自らの手で今年の新米を贈れなかったことだろう。しかしながら彼の、その新米よりもつややかな友情、その無情な死をもってしても断ち切れない友情は、永遠に絶えることなく劉学東と陸新紅の心の中に残るだろう、この友情があるかぎり、生も孤独ではなく、死も孤独ではないのだ...。

劉学東は電話の向こうで涙に咽びながらこういった。「どうか、私の代わりに文章を書いて、私に代わってありがとうをいってください。」

私はこの美しい声をどんなにかあなたに伝えたいことか。私たちは出会ったこともない異国人だが、きっとあなたには聞こえるはずだ、見えるはずだ、篠崎栄行さん...。

新米

日本的大米也许是世界上最好吃的米了。而每年秋天的新米,吃起来更是满口清香。每到新米下来,饭店和卖米的商店都会贴出画着金黄稻穗的广告,上面用大字写着:“新米到了!”

最近,身患白血病的前千叶大学留学生刘学东给我讲了一个有关新米的故事。在电话机里,我听到了他的泪水在簌簌地坠落。

刘学东说他有一个五十多岁的日本病友叫筱崎荣行。和他一样患的也是白血病,一起住院时,他对刘学东非常照顾,总为刘学东买一些饮料什么的。在刘学东过意不去的时候,他就对刘学东说;“你是学生,很苦的,我有保险,住院每天还可以得到两万多元。”筱崎的家乡是大米的著名产地千叶的东金,每当新米下来,他都要送给刘学东十公斤,让他和日本人一起分享醇厚的清香和丰收的喜悦。他们都知道得了这种病来日不很长,但他们都说,由于彼此间的友谊,他们活得很开心。

筱崎去年六月出院了,但是今年一月病情恶化,他又住进了医院,这时他的病情已进入了危笃期,药物已经不起作用了。七月二十日,刘学东携夫人陆新红去看望他,知道自己将不久于人世的筱崎当听说陆新红也身患绝症时,对陆新红说:“你一定要好好地活下去,到了天堂我会拜托上帝照顾你的。”

八月二日,当刘学东再去看筱崎时,他已经很虚弱了,他对守在自己身边的姐姐说:“不久我就要去了,可姐姐你可不能忘记呀,新米下来要给刘先生送新米哟。”

八月十九日,筱崎静静地离开了人世。在弥留之际,他用极微弱的声音对刘学东所说的最后的一句话,是用中国话说了声“谢谢”。

九月十二日,刘学东和陆新红接到了筱崎的姐姐寄来的新米和一封短信,信中说:“弟弟住院时,多亏你们照顾他了,送上一点新米,小小的一点儿心意······”

在中秋圆月如水的清辉中,在新米散发着的清香中,刘学东和陆新红簌簌地留下了泪水。筱崎静静地去了,令他更遗憾的也许是不能亲手把新米送到两人的手里。然而他那比新米更清醇的友情、那令无情的死也无法割断的友情,永远绵绵不断地留在了刘学东和陆新红的心中,让人感到只要有了这种友情,那么,生也不孤独,死也不孤独······

刘学东在电话里哽咽着对我说:“请你在文章里替我说一声:谢谢,谢谢······”

我多想把这美好的声音传达给你,尽管我们是从未谋面的异国人,但我知道,你听得懂,也听得见啊,筱崎荣幸先生······

日漢対訳読物 03 蝉の声

私は子供の頃から中国の東北で育ったので蝉の声を聞いたことはなかった。のちに北京に出て働き、郊外の農家の敷地(庭)に住んでいた。

夏が来ると柿の木の濃い木蔭が庭をすべて覆う。こまかく砕いた金粉を篩にかけたような陽光の下、誰か一声命令したのか、紅い屋根と緑の木々のあいだで無数の透明な蝉の羽が突然陽気に動き出す。琴瑟(キンシツ)のような蝉の声が光と影のなかに流れ込み、まるで陽光の透明な手が万物の合奏を演奏しているようだ„„。雨の後の蝉の声はさらに美しくて捨ておけない。

杜甫の詩に曰く:晨鐘雲外湿(朝の鐘声が雲の外側に湿っぽく響いている)。

雨の後の蝉の声も、緑の潤いをゆっくりと散る白雲のあいだに揉み込んで酷暑の中に一片の清涼をもたらし、白居易の『井底引銀瓶』(井底銀瓶を引く)のなかのすがすがしい詩句を思い起こさせる。

嬋娟両鬢秋蝉翼、宛轉雙蛾遠山色(美しい両鬢はセミのはねのようで、きれいな両の眉は遠山の色のようだ)。

その頃、私には解らなかった、どうして中国詩人のおおくが蝉の声を悲しく痛切に描くのか。たとえば洛賓王の『獄中詠蝉』(獄中に蝉を詠ず)のように、西陸蝉声唱、南冠客思沈 不堪玄鬢影 来対白頭吟

太陽が西陸を行くといわれる秋が来て蝉が唄い始めると、異国で捕われの身となっている私の心に旅の憂いが侵み込んで来る。高潔だといわれる黒い美しい翅を持った蝉がやって来て、自分の潔白を訴えて歌う私の白頭吟の歌を聞いてくれるのを見ると、とてもたまらない気持ちだ。

李商隠の『韓弘舎人即事』では 鳥応悲蜀帝、蝉是怨斉王(鳥は蜀帝を悲しんでいると思い、蝉は斉王を怨んでいるだろう)

李商隠の詩は韓弘と柳氏との悲歓離合の故事を詠っている。ついでに「斉后化蝉」の典故を引用する。晋の崔豹の『問答釈意』のなかに書かれていることによると: 牛享問うて曰く「蝉の名、斉女なる者は何ぞや?」

答えて曰く「斉王后怒して死す。屍変りて蝉と為り、庭樹に登り、彗涙して鳴く。王悔恨す。故に世名して曰く斉女なり」

まさに蝉の声を、恨みを抱いて死んだ女の哀しい声にたとえているのだから、その蝉の声も悲しいものだと見なすことができる。

東京にきてからは経緯度の違いか何かはわからないが蝉の声を聞くのは非常に少ない。しかし蝉がいないわけではない。

一度、私の運命をお祈りしに行ったか、あるいはただ何かのついでだったかはわからないが、ある日の夕方明治神宮に行った(いやきっと観光ではない、日本に来てからずっとそんな暇はなかったのだから)。お参りをしたあとだったか、私は長い林の道を歩いていた。突然、露にしみこまれたようなかすれた蝉の声が幾層にもなった厚い葉の中から重々しく漏れ出て来た。そして風に吹かれてとぎれとぎれに鳴き続けた。私の心はさっと震え、洛賓王の詩句がわけも無く口から出てきた。

露重くして飛ぶも進み難く、風多くして響き沈み易し。

これはつまり日本の詩人がよく言う“ヒグラシ”蝉で、日本人も中国人と同じく蝉を詠う時は常に悲しみを帯びる。『万葉集』のなかに三首、蝉を詠った詩がある。巻第十に 夕影に来鳴くひぐらしここだくも日ごとに聞けど飽かぬ声かも

夕方のかすかな光の中に来て鳴いているひぐらし、このひぐらしはこんなにも毎日毎日聞いても決して飽きることのない声だ

ひぐらしは時と鳴けども片恋にたわや女我れは時わかず泣く

ひぐらしは今こそ我が時とばかり鳴いているけれども、片思い故にか弱い女であるこの私は、一日中泣き濡れている。

とある。巻第十五では 石走る滝もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば都し思ほゆ

岩に激する滝の轟くばかりに鳴きしきる蝉、その蝉の声を聞くと都が思い出される

がある。日本の詩人が蝉を詠うとき、また非常に面白いことに出会うことが出来る。それはつまり、日本語の中で、“ひぐらし蝉”と夕方を意味する“日暮”の発音が同じなのである!

听蝉

我从小生长在中国东北,没有听过蝉声,后来到北京工作,住在郊区一个农家的院子里。

一到夏天,柿子树浓浓的树荫笼罩着整个院子,筛动着点点细碎的金子一样的阳光,不知是谁一声令下,红瓦绿树间无数透明的蝉翼突然欢快地鼓动,一阵琴瑟般的蝉鸣流进光和影,像是阳光透明的手拨响了万物的合弦„„。雨后的蝉鸣更是美不胜收。杜甫诗云“晨钟云外湿”。

雨后的蝉鸣也是把一阵绿色的湿润,揉进散漫的白云之间,让酷暑中流进一片清凉,这也会令人想起白居易《井底引银瓶》中的清新诗句:“婵娟两鬓秋蝉翼,宛转双蛾远山色。”

那时我不明白,为什么有许多中国诗人都把蝉鸣写得那悲切。

如骆宾王《狱中咏蝉》:“西陆蝉声唱,南冠客思沉。不堪玄鬓影,来对白头吟。”

李商隐《韩弘舍人即事》:“鸟应悲蜀帝,蝉是怨齐王。”

李商隐在诗咏韩弘和妓女柳氏悲欢离合的故事时巧用了“齐后化蝉”的典故。

在晋人崔豹的《问答释意》中写道:

牛享问曰:“蝉名齐女者何也?”

答曰:“齐王后忿而死,尸变为蝉,登庭树,彗唳而鸣,王悔恨,故世名曰齐女也。” 将蝉鸣喻为含恨而死的女子的哀鸣,可见其声也悲。

到了东京后,不知是经纬度不对还是什么别的原因,很少听到蝉鸣,但并不是没有蝉。

不知道是为了祈祷我多舛的命运还是为了顺路,我在一个傍晚来到了明治神宫(反正不是观光,因为从到了日本就没有了这种悠闲),也许是参拜完神,我走在长长的林荫路上,突然,一阵被露水渗透般的嘶哑蝉声在层层的厚叶中沉重地泛起,又被风扯得断断续续,凄切而哀婉。

我的心猛地一颤,骆宾王的诗句不由地脱口而出:“露重飞难进,风多响易沉。” 这也就是日本诗人们常说的“暮蝉”、“晚蝉”。日本人和中国人一样,咏蝉常含悲,在《万叶集》中,有三首咏蝉之诗。卷十中有“夕影斜映,晚蝉低鸣。日日聆听,不弃不厌。”“晚蝉哀鸣,时泣时停。悲恋在心,泣之不停。”卷十中有“岩飞瀑布,阵阵轰鸣。蝉鸣不停,故国乡情。”日本诗人在咏蝉时,还可以遇到一个非常有意思的事情,那就是在日语中,“晚蝉”和“日暮”的发音是一样的。

日漢対訳読物 04 風景としての日本語

日本語と中国語は、どちらも漢字を言語の骨組みとして成り立っている。漢字のなかには、一つの文字がいきいきとした画像として完成されているものもある。これは単なる意味を伝達する記号ではなく、われわれの視覚に直接訴えかけているものでもあるように思われる。中国語を母国語とする者にとって、日本語の仮名に引き付けられる時もあり、また漢字を「薄めた」後に残された線にいささかの違和感や困惑を覚えることもある。かなの存在は既に文法的なレベルだけではなく、漢字を見る我々の視覚にとっては、その゗メージを緩和するような働きをも持っている。かなは、漢字の偏旁だという定義がある。が、厚味のないかなの筆画が、漢字の群の中を織り込むように遊泳するさまは、まるで沙漠のなかにあわれてきたオゕシスのようである。

ひとつの画像としての漢字の存在を考えると、その形の豊満さもさることながら、意味空間にまで溢れ出て奥深い潭のように水底はほとんど見えてこない。人間の想像力に与える漢字の影響は、実に大きなものであるが、そのすべてが、表形でないと言い表わせないような内なる企図で、時には人に苦労を重ねさせる結果にもなる。画像は空であり、また人間を束縛する籠でもある。二つの言葉で文筆活動を行っている私は、最近になって日本語に対する゗メージがずいぶん変わった気がする。

言語は、一枚の風景画のようなものだ。美術館で作品を鑑賞することを連想される方もあるだろう。人間ははじめて絵に接した時に、距離感というものを忘れがちになるが、実際に視覚と作品の関係は、作品と自分との間に存在する距離によって決められることが多い。例えば、手元に持つ絵と、それを3メートル先に置きながら見る場合、さらに10メートルも離れてその絵がひとつの点景にしか見えない場合を考えると、我々の感じ方は果たして一緒だろうか。言い換えれば、距離というものは、一枚の絵に対するわれわれの凝視を和らげる効果があるに違いがない。そして絵を除いた周りの空間は絶えず視覚の領域にしぼりこまれてきて、人間の感受性にますます大きくなっていく参照係数を提供してくれる。一枚の絵は、ただひとつの画像であるが、それは動き続ける現実の世界を切り取り紙面上に静止状態で凝固させたのであろう。人間は、生きている限り、思惟という活動を止めることが容易にできない。だから静止画像も一種の流動する感性に変わりながら、われわれの感覚を刺激することがあるように思われる。

日本語もひとつの画像であり、時には風景そのものである。とりわけ、かなと漢字の共用は、あたかも水と油を混ぜたような状態にみえる。水はかなで、透光に澄みきっている。ぎりぎりまで省略されたわずかな筆画は、まるで樹枝のように漢字の中をひっきりなしにかき回している。その一方、かなによって壊された漢字は、妙にさっぱりしている。漢字は油で、かなの中に滴らせるとすぐに凝固する。そしてその痕跡だけは、かなと共に流れ漂いはじめる。漢字はひらかなと共に揺れ動きながら、かたかなによって浮かび上がることもある。漢字は動きまわるかなによって、その隠喩が解釈されるのであろう。かなを海とすると、漢字は島である。私は、一隻の船のように海と島の間を自由に往来する。出身地が漢字の島であることは、私の宿命かもしれないが、それは実に愉快なことでもある。なぜなら私は更なる広大な空間を目の前にして、島を取り囲む大海原をも満喫することができるからである。二つの言葉で書き物をしているこの私に、神様が新しい生命を授けてくれた気がする。

日语是风景

无论是日语,还是中文,它们都是以汉字为语言框架的,而且在这一框架之中,每一个字形的出现都是通过生动的图像而完成的,这里不仅传达了具体的意义,而且还为使用者提供一个直诉视觉的机会。对于把中文当作母语的人来说,当他的目光被日语中的假名所吸引,或者被那种淡化汉字以后所呈现的简单笔划所困惑的时候,日语假名似乎就不仅是一个语法上的存在,而是变成了为视觉服务的一种印象缓冲剂。假名是汉字的偏旁,而且它每一次单薄的笔划漫游在汉字当中,有时就像沙漠中的绿洲一样。

作为一个图像的存在,汉字的形象是饱满的,它充斥了意义的空间,像一处深深的水潭,看不到水底。汉字赋予人的想像力是丰富的,但同时,凡是都以表形作为企图的内部扩张有时却令人疲劳。所谓内部扩张,是指那种非表形不可的表达方法。图像是天空,同时也是牢笼。无疑,获得如此的感受是有条件的,至少对于我个人来说,当我开始用两种语言从事写作的时候,我对日语的印象开始发生了明显的变化。

语言是一种风景画,这可以让我们联想到在美术馆里面欣赏一个作品时的情景。当人的视觉第一次跟作品接触的时候,我们或许忽略了距离的存在。但实际上,人的视线与作品之间的关系许多都是由距离决定的。你看一幅画,拿在手边看和离开它3米以外看,甚至离开它远达10米以外而把这幅画看成了一个点的时候,我们的感受能够一样吗?换句话说,距离冲淡了我们对这幅画的凝视,而画外的空间不断地挤入视觉领域,为人的感受提供了越了越大的参照系数。一幅画无怪乎是一个图像,它把动态的世界定格在一个静止的状态,但恰恰是人的思维永远不会停止活动的缘故,图像的静止却往往变成了一种感性的流动迷惑了我们的认知,乃至于把距离的概念堵之思考范围之外。

日语也是图像,有时更像风景,尤其是假名与汉字的并用,犹如水和油注入到一起的状态。水是假名,清彻而透光,看上去是一些枝节破碎的笔划在汉字中穿梭,但假名之于汉字的拆卸作用却使汉字显露出被稀释以后的爽朗。汉字是油,滴入假名当中的那一瞬间或许是凝固住的一块痕迹,它随着假名而荡漾,不仅依靠平假名的托起,而且还借助平假名的游离,使汉字的隐喻得以最大限度的释放。

日漢対訳読物 05 日本の「建前」と「本音」

恐らく日本にいる外国人の中で、日本の「建前」と「本音」に悩まされない人はいないと思います。「建前」と「本音」は、大和民族特有の表現文化です。前者は表に出しているもの、後者は内心に思っているもので、両者間のギャップは、時には天と地の差があると言っても決して過言ではありません。「建前」を通じて「本音」をいかに的確に掴むかは日本人の幼い時からの訓練の積み重ねであって、外国人の我々にとっては決して簡単に身につけられるものではありません。取りあえず、日頃からダ゗レクトに自分の意思を表現しない日本人が表に出している事に対しては、文字通りの単純理解は極めて危険です。

殆どの外国人は進学なり、就職なりで日本で面接を経験したことがあるわけです。そこで一つの経験談があります。もし、面接官が目の前であなたを褒め尽くしているとしたら、ほぼ結果ははずれに違いありません。

私自身も要領を得なかった経験があります。ある日、自分のゕンダースカートのレースが表に露出してしまったことに全然気が付かない私は、日本の友人に「綺麗なレースですね」と声をかけられました。その意味を間違って褒め言葉として受け止めた私は、気分揚々得意になり、全く自分に対する注意とは思いもしませんでした。あの日から幾年も過ぎましたが、思い出すたびに自分の鈍感さに顔が赤くなります。

会社の有給休暇はもう一つの例です。

有給休暇は、労働法により保護される働く人の権利であり、社員として年間一定日数の有給休暇を貰えることは明白に会社の社則で決められています。しかし、だからと言って、正々堂々とその権利を享有するわけにはいかないものです。実際は、社員に権利を与えるのはあくまでも会社の「建前」であって、いったん本当に休もうとすると休む間は担当業務はほかの人に分担してもらわなければいけないので、迷惑だという事で有給休暇を取るのは会社にとっても、同僚にとっても決して喜ばしい行動ではないというのが「本音」です。その為に、年間に1ヶ月くらいの有給休暇が水の泡になってしまい、せっかくの権利を放棄せざるを得ない社員がずいぶんいます。

まあ、働いている間は自分のポジションを確保する為にやむを得ないかも知れませんが、会社を辞める前には、せめて貯まりに貯まった有給休暇を消化したいのが普通でしょう。

しかしそうもいかないのです。こんな事例があります。私が勤務している会社で日本人の同僚と外国人の同僚が同じ時期に会社を辞めました。お二人とも前々から会社に辞める意志を伝えていたにも関わらず、なかなか引き継ぎの後任者を配属してもらえませんでした。日本人同僚は有給休暇を消化するどころか、辞める前日も遅くまで残業せざるを得ず、業務処理に追われました。もちろん、当たり前ですが会社からも周りからもそれなりの評価を貰いました。一方、僑居生活の経験で自分の権利を自分で守る知恵を身につけた外国人同僚は、辞める前に自分の受けるべき権利をちょっと主張しただけで、廻りに白い目で見られてしまいました。私は外国人として、その日本人同僚の行動から、お人好し志向の日本人の民族性を幾らか読めたような気がしますが、日本企業の主張と現実の不一致に疑問を感じます。

類似事例がいっぱいあると思います。要するに、日本で生活する以上、「建前」と「本音」という文化は避けては通れないもので、みんな絶えず悩まされるうちにだんだん賢くなって、成長していくのです。

日本的「表面」和「真心」

恐怕在日本的外国人没有不被日本人的「表面」和「真心」所困惑的。「表面」和「真心」是大和民族特有的表现艺术。前者是表现在表面的,后者是内心所想的,要说两者之间的差距有时具有天壤之别都绝不言过。如何透过「表面」准确地抓住「真心」是日本人从小训练的积累,绝非我们外国人轻易可以掌握的。总而言之,在日常生活中对不直截了当地表达自己意思的日本人所言之事,从字面上去单纯理解的话,那是十分危险的。

绝大多数的外国人在日本都经历过升学或就职的面试。这里有个经验之谈:如果考官当面竭尽全力夸奖你,毫无疑问结果多半是落选。

我个人就有过不得要领的教训:有一天,我对自己的衬裙花边暴露在外毫无察觉。日本朋友便对我说「好漂亮的花边呀」。我错将这话理解成是赞扬话而得意洋洋起来,却全然不知是在提醒我。事过几年了,每当回想起来都自己的迟钝而脸红。

有薪假又是一个事例。

有薪假是受劳动法保护的就业人员的权利,在公司里的规则里面明确有规定每年职工可享用一定天数的有薪假。但是,决不可因此就大摇大摆地享用这个权利。其实,给职工权利这仅仅只是公司的「表面」,一旦真要休假,由于在休假期间所负责的工作得由其它同事分担,所以被视为添麻烦的事,休假无论对公司还是对周围的同事来讲都绝非是受欢迎的事,这就是「真心」所在。就因为此,一年内一个月左右的有薪假泡汤,特意获得的权利也不得不放弃的职工大有人在。

唉,在供职期间,人们惟恐自己的饭碗丧失,那样做也许是出于无奈。但在辞掉工作前想消化掉过去积攒下来的有薪假这是人之常情。

但是那也是不行的。有这样一个事例:在我所供职的日本企业里,日本人同事和外国人同事同时辞职。俩人都提前很早就提出辞呈。但公司却迟迟不配备接班人。无奈,那位日本人同事不要说是有机会消化有薪假了,就在辞职的前一天还不得不加班到很晚以处理业务。当然理所应该地得到了公司和周围相应的评价。可是,那位从侨居生活经历中学会自己的权利自己保护的外国人同事,却由于在辞职前稍为强调了一下自己应该享有的权利,而公司和周围就对此颇有微词。作为外国人,从那位日本人同事的行动中我仿佛能读董一点努力做好人的日本人的民族性,但对于日本企业的不言行一致而有疑问。

类似的事例不胜枚举。总之,在日本生活,就无法回避日本的「表面」和「真心」文化,因此大家都会在不断的烦恼之中渐渐地变得聪明、成长起来。

日漢対訳読物 06 料理小話(中国料理と日本料理)

料理のことを持ち出すと中国人はきっと誇らしげにこう言うでしょう。「そりゃ当然中華料理でしょう!」

たしかに、遠く数千年前には、我が先祖は『斉民要術』『玄宴春秋』『食珍録』などの書物のなかで、料理の材料、調理方法そして食物の薬効に至るまでを詳細に記載しました。

歴代の王が世界の山海の珍味を集め、天下一の料理人を雇ったことは言うまでもありませんが、宮廷の高官、裕福な商人たちまでもがその権力と財力で各地の特産物や料理人を集め、はては退職した有名な宮廷料理人を招聘し、「観之有色」(目に楽しい)、「聞之有香」(美味しそうな匂いのする)、「食之有味」(食せば美味しい)酒宴を設けてその権力を誇示しました。文人たちはさらに、その美酒佳肴を味わい、賞賛し、永遠に詩に遺しました。また、たとえ兵馬相乱れる戦乱の世の中でも、「朝に酒があれば朝に飲んで酔う」(明日は明日の風が吹く)という消極的な概念が中国人にはあり、生存のあらゆる希望をすべて「食べること」「飲むこと」につぎ込んだのです。

だから、私見によれば、中国料理は先に述べたように、泰平の世と戦乱の世のなかで積極的に消極的に発展したのだとおもいます。

これに比べて日本料理からは、平静さや優雅さ、平安が伝わってきます。日本料理のどの宴席の、どの皿、椀、鉢を見ても、その独特で珍しい「美」「雅」「静」を感じることが出来ます。思うに、ほとんどの中国人は、初めて日本料理を味わった時、私と同じように深い感動を覚えるのではないでしょうか?

以前、一人の日本人が真剣な様子で私にこう話したのを覚えています。「日本料理というものは、半分は見るもので、後の半分が食べるためのものだ」私もこの意見に賛成で、またこうも思っています。「ただ単に料理だけを味わうというのではなく、運ばれてくる皿、椀、小鉢など、料理にあわせてさまざまに変化する器の大きさやかたち、色、そして凝った盛り付けなども一緒に味わうべきだ」と。日本料理の中の「懐石料理」が使用する皿、椀、箸は、料理と日本の伝統である茶道、花道との関連、また、その時と場所に合わせたもてなしの心がもっともよく現れています。料理を味わう者は、皿、椀、鉢に盛られた料理の中から日本料理の「美」「雅」「静」を感じ、日本の伝統思想を深く理解することが出来るでしょう。

ところで、来日して随分たちますが、家族や友人と温泉旅行に行くという話があると、いつもとても嬉しくなってしまいます。実を言うと、温泉に入るのが嬉しいというのではなく、またあの「皿」や「椀」や「鉢」に会えるから嬉しいのです。もしあなたが日本で温泉にいく機会があったなら、どうか必ず、その運ばれてくる、料理と組み合わせられた「皿」「椀」「鉢」などの器に少しだけ注意を払っていただきたいとおもいます。

轻描料理

提起料理(烹调),中国人一定会很自豪地讲:“那当然是中国料理!” 的确,早在几千年前,祖先便在《齐民要术》、《玄宴春秋》、《食珍录》中,对料理的原料、料理的方法、以及食物的药用、都有过很详细地记载。

不用说是历代君王收尽天下山珍海味,任用天下最好的名厨,就连宫廷的高官,富有的商人财主也会依其权力财力,收集各地特产,厨师,甚至聘用宫廷退役的名厨,并以能够摆出一席“观之有色”“闻之有香”“食之有味”的酒宴而为炫耀,文人墨客更是以能够品尝到美酒佳肴而赞不绝口,留诗千古。即使是在兵荒马乱的战争年代里,中国人也有“今朝有酒今朝醉”的消极概念,把生存的所有希望,全部注入到“吃”“喝”中去。

所以,依我的浅见,中国料理就是如此这般的在太平盛世和战争年代中,得到了积极和消极的发展。

与此相比,日本料理就会显得十分平静,优雅,和平。你可以从它的每一个宴席的每一种碟、碗、盘中,领会到那独特的、奇特的“美”、“雅”、“静”。我想,大概所有的中国人在第一次品尝到日本料理时,都会和我一样被它深深地感到了的吧?!

记得以前一位日本朋友曾经很郑重地对我讲过:“日本料理一半是为了‘看’的,另一半才是为了‘吃’的。” 我也是赞同这种说法,而且还认为:与其说是单单品尝料理的味道,不如应该说是连同一起品味了那些、随着料理的变化端出来的、与其相配的、不断变换的盘、碗、碟的大小、形状、颜色、以及其上的料理的各种讲究摆法。日本料理中的“怀石料理”所使用的盘、碗、筷,更尤为体现出了料理与传统的“茶道”“花道”的关联,与周围环境的协调,使品尝者从每一道盛在“小盘”“小碗”“小碟”的料理中,感受到日本料理的“美”、“雅”、“静”,领会到日本的传统思想。

来日多年,每逢和家人,朋友一起去温泉旅行时,我都会很兴奋。对我来说,并不是为去“泡温泉”而兴奋,而是为又可以同那些“小盘”“小碗”“小碟”再会而感到兴奋。

倘若您有机会在日本“泡温泉”的话,请您也务必留意一下那些与端出来的与料理相配的“小盘”“小碗”“小碟”„„„。

日漢対訳読物 07 「なまもの」好きの日本人

食物には必ず火を通すなどして、調理されたものを口にする習慣をもつ学生にとって、日本での食文化はなかなか馴染みにくい。

日本には「生」の食べ物として広く知られている刺身以外にも、「生肉」「生水」など、「なまで」、つまり、煮たり焼いたり乾かしたりしないで食べる物がかなりある。

「生菓子」や「生卵」など、昔から使われている言葉も多いが「生」を使った新しい言葉もどんどん生まれている。「生チョコレート」、生クリームを多く使用し、あまり日持ちしないチョコレートのことをこう呼ぶ。「生絞り」、これはあるメーカーが自社の缶ビールに付けた商品名だ。

食べ物以外で「生」という言葉が使われる場合も多くある。「生番組」通常、テレビ番組は撮影された後編集されて放映するものだが「生番組」は撮影されると同時に放映もされる。「生脚」、これはストッキングや靴下などを履いていない状態あるいはその脚を指す。若い女性の間で作られた俗語で、主に女性の場合に使われる。

嗜好“生”物的日本人

在日本饭菜中生吃的食物很多。除了广为人知的生鱼片以外还有“生肉”、“生蔬菜”等生吃的食物。也就是说有很多食物既不用炖也不用烤就可以吃。这对于习惯了食用经过加工制作的食物的留学生来说似乎很难适应日本的饮食文化。

但是我们日本人好“生”之程度可并非一般冠有“生”字的新型食品在不断涌现。例如“生巧克力”这是指使用了较多的鲜奶油且保存期限短的巧克力“生扎啤”则是一家啤酒厂为本厂生产的罐装啤酒所起的名称。

“生”(なま)这一词汇含有“新鲜的、未经加工”之意,除了食物之外,还广泛用于其它领域。比方说“生番组”一词其意为电视直播节目。电视节目通常是在拍摄后经过编辑才播放的而“生番组”则是指不加剪辑、边拍摄边播放的节目。还有一个新词汇为“生脚”这是指女孩子脚上没有穿袜子或是穿裙子时不穿长筒丝袜。该词是产生于女青年之间的俗语,同时也主要用于女性。

早餐时吃生鸡蛋,中午一边吃着生蔬菜一边观看“生”直播电视节目,到了晚上则吃生鱼片。由此可见日本人的生活的确是离不开“生”字的。

读完这篇文章后如果你能在一分钟内造出带有“生”字的词汇那么也许可以说你是一个相当了解日本的日本通了。

日漢対訳読物 08 「多子多福」を願う伝統

中国では普通、子供の多い家庭が繁栄し幸福だとされている。だから人々は、社会的地位や身分の上下に関係なく、子供を多く生む女性に対しては、一種、感謝の気持ちを抱いている。

中国悠久の歴史の中で、儒教は重要な働きをした。儒教が理想国家としているのは周代の文王の世である。彼は100人の子供に愛されただけでなく、数万人の人々から長として仰がれた。昔から人々に知られている「百子戯蓮」はここから伝わったものである。

中国では他にも「多子多福」(子供が多ければ幸せである)の伝統的な吉祥画がたくさんある。これら家の居間に掛けられている吉祥画でよく見かけるのは、蝶の群がたくさん実をつけた瓜畑の上を飛び交っているものだ。その瓜の果実はまさに子供の象徴で、家庭に幸せを満ち溢れさせるものなのである。

日本の伝統である家紋にも、多く吉祥を願う意味が含まれている。女性にとって欠かすことのできない櫛にもこのような家紋が描かれてある。この櫛は往往にして母親から娘に伝えられるもので、「和櫛」と呼ばれる。日本の漆器に多いのもワラビ、つくし、蝶蝶など、多子多産に関係のあるデザ゗ンだ。お祝いの宴席で出される食器にもしばしば母子草の模様が登場する。刀のつかに刻まれる「花紋」のデザ゗ンはたくさんの男の子に恵まれますようにという願いを現している。このような伝統は、結婚の宴席での和服にも現われている。着物の絵柄には10数羽から2、30羽におよぶ鴛鴦が描かれているものが多いのだが、鴛鴦はつまり、仲睦まじい夫婦の象徴なのである。たくさん子供を産む女性が賞賛を受けるのは古来の習いだが、これは当時、死産.早産が多かったためであろう。

明治時代の女性記者.磯村春子は、かつて「報知新聞」でめざましい活躍をした。彼女は産休などのない過酷な労働条件のもとで出産し、8人もの子供を育てたのだ。彼女は多くの子供を育て、円満な家庭を築くと同時に、自分のラ゗フスタ゗ルを貫いたスーパーウーマンの先駆者と言っていいだろう。

1世紀近くを経た今、若い人たちの中から新しいゕ゗ドル――歌手.安室奈美恵――が現われた。彼女がレコーデゖングしたCDの売上げ枚数は毎回記録を更新した。97年秋彼女は記者会見で、自分が妊娠していて近く結婚すると発表した。そして、出産準備のため、1年間歌手としての活動をしないとも言った。その記者会見のあいだじゅう、彼女は満面、幸せそうな笑顔で溢れていた。それはまさに、母親になる喜びの表情だった。その後98年5月、安室奈美恵は無事に男の子を出産し、また話題になった。

女性は命を創造し、生命を育むことができる。これが男性と根本的に違うところだ。10ヶ月間妊娠し、出産、子育てを体験する女性は、その経験を通して一つまた一つ成長してゆくのだといえる。そしてそれと共に人間性もゆっくりと成熟してゆくのだ。母親になる一つ一つの課程は、女性が成長してゆくための、いはば節目の連続なのである。

大阪市の中心、JR大阪駅近くの、ある病院では97年5月から週に1度のホットラ゗ンを開設し、不妊に悩む女性達の相談を受け始めた。そこでは3ヶ月間で527件の相談があったという。その1年前にも、東京のある出版社で1ヶ月に1回の不妊相談のホットラ゗ンを開設している。専門医師らはこのようなホットラ゗ン上で、実にたくさんの女性から不妊に関する悩みを打ち明けられた。これは、女性が自然と母親になりたいと願うことの現われであろう。

明治時代、「青踏」が「元始女性は太陽であった」という宣言をした時から、徹底的な女性解放運動が始まった。原始社会は即ち母系社会であり、女性は当然尊敬されていた。後には、代々生命を生み育てる母体は、人々から豊作を願う象徴とされた。母体がなければ生命の継続もないのだ。

しかし、すべての女性がこの点を認識しているわけではない。日本女性の中には安室奈美恵と正反対の人も多い。若者の中では今、母親になりたがらない風潮が広がっている。多くの若者が「子供はいらない」「子育てはめんどうくさい」と明言している。その一方で彼女たちは大量の宝石類を買い、流行のフゔッションを追うことに命を懸けているのだ。自分の趣味に満足し、生命の意義を考えようとはしない。このような日本女性が増えてきているのは実に残念なことである。

期望“多子多福”的传统

在中国,人们通常相信多育的家庭是繁荣和幸福的。所以,人们不论社会地位的上下,贵贱,都对能够多生孩子的人抱着一种感谢的心情。

在中国漫长的历史中,儒教起了重要的作用。把儒教作为理想国家的是周代的周文王。他不仅赢得了一百个孩子的喜爱,更赢得了数万人的拥戴。古今人们所熟悉的“百子戏莲”,就是从这里流传下来的。

中国还有不少多子多福的传统吉祥画。这些挂在家庭居室中的吉祥画,画面上常常是蝴蝶飞舞。环绕着饱结果实的瓜田。那些瓜果,就象征着孩子,让家庭中洋溢着幸福。

日本许多传统家纹也含有祈愿吉祥的意味。女性们离不开的梳子上面就有这样的家纹。这种梳子往往是由母亲传给女儿的,称之为“和梳”。日本的漆器表面也大多是绘着蕨菜、马草及蝴蝶等等与多产多育相关的图案。祝贺宴席上拿出来的食器上面,也时常有着“母子草”的图案。在刀柄上刻上“护把”的图案,可以显示出希望要很多男孩子的愿望。那些出现在结婚宴会上的和服,图案经常是十几只乃至几十只鸳鸯,而鸳鸯则是能够生育的和睦夫妻的象征。

多产的女性受到赞誉,这是古来的习惯,这可能是因为那时死产、早产太多的原因吧。

日本明治时代的女记者矶村春子曾经活跃在《报知新闻》。她在没有妊娠假、产假等苛刻的劳动条件下,居然生育、抚养了8个孩子。她养育了众多的孩子,维持了家庭的美满,同时实践了自己的生活方式,真可谓非凡女性的先驱。

经过将近一个世纪以后,年经人中出现了他们的新偶像--著名歌手安室奈美惠,她录制的CD唱片,其贩卖数被一次又一次历史性地刷新。1997年秋,她在会见记者时,宣布了自己已经怀孕并要结婚的消息。同时她还宣布,为了准备生育孩子,她将停止一年的歌手活动。在整个记者招待会过程中,她的脸上洋溢着幸福的微笑,这是期待着成为母亲的表情。1998年5月,她顺利地生产出一个男婴后,她再一次成为人们的话题。

女性可以创造生命,培育生命,这是和男性根本的不同。怀胎十个月,体验了生产,育儿的女性,可以说经历了一次又一次地成长,其人性也漫漫地成熟了。成为母亲的过程,才是一个女性成长起来的后续节目。

在大阪市中心的JR大阪车站附近有一家医院,从1997年5月起开通每周一次的热线电话,给因不孕而烦恼的妇女排忧解难。3个月间,他们接到了527个电话。在此前的一年,东京有一家出版社也开设了一月一次的不孕热线电话。由专门医生开设的这种咨询机关,使许多不孕妇女得以倾诉烦恼。这也体现出女性自然地渴望成为母亲地心愿。

日本明治时代,青踏派发出“自古以来女性就是太阳”的宣言,开始了彻底的妇女解放运动。

原始社会就是母系社会,女性当然受到尊敬。以后世世代代的孕育生命的母体被人们作为祈祷丰收的象征。没有母体便没有生命的延续。

但是,并不是所有的母性都能够认识到这一点。不少日本女性与安室奈美惠截然相反。年轻人中正在流传着做母亲的恐怖症。很多年轻人明确地表示“我不想要孩子”、“抚养孩子很麻烦”。与此同时,她们却在大量地购买金银饰品,拼命地追赶时装潮流,满足自己的兴趣,却不考虑生命的意义。这样的日本女性越来越多,实在是太可惜了呀。

日漢対訳読物 09 だめなパパ

私のこどもは四歳をすぎた女の子である。こどもというのは、短期間にいろいろと人相がかえるもので、過去、我が子ながらかわいいと思ったことが三度あった。また、我が子ながら不 器量だと首をかしげたことが六度ほどあった。

現在は、その中間型くらいである。それにしても、かわいく思うとには変わりがない。親バカというものはもっともないものだが、正直の話、喜んで、バカになりたいとも思う。

そのくせ、彼女は一年ほど前まで、あまりこの私になつかなかった。仕事部屋から追い出したり、出したり、あまりいっしょうに遊んでやらなかったことが原因らしい。ことらが都合のいいときだけかまおうとするので、ダッコをしようとしても逃げていったりする。

パパは悲嘆に涙にくれたものだ。

ただ、私が甘い子とだけはしていて、ままに隠れてお菓子をとりにゆこうとするたくらみを抱くときのみ、「パパ、ダッコ」と私を誘う。そういわれると。このパパは身体中グニャグニャになるのである。

しかし、最近、この経過が変わった。私は不健康な自分の身体を何とかしようと思って一大意志を奮い起こして。体操とランニングを始めた。

中年の男が昼間からその辺りをドタバタ走っているのはみっともないから、こどもを利用することにした。いかにも子どもをあそばせているふうに見せかけて、彼女といっしょにランニングをした。

「パパ、ランニングちよう」 と、彼女が誘いにくる。

その内、家から五分ほど離れた場所に空地があって、ここに土が盛られて小山をなしている場所を発見した。

「パパ小山にゆこう」と彼女がいう。

私は子どもといっしょに山へゆき、手をひいてかなりの急坂をくだらせ、ついで手をひいて坂をのぼらせた、だんだんと子どもも勇気が出てきて、このごろでは一人きり滑りながら登ったりする。

その後姿を見ながら、「小学生になったら日本日本ゕルプスに連れて行こう。女性ゕルピニストにしてもいいぞ」などと、愚かな父親は思う。

そんなふうに、私が彼女といっしょに遊んでやる時間が多くなるに連れ、がぜん彼女は私になつき始めた。その上、かんざんに甘いパパである。

このごろでは、「パパはやさしいからすき。ママは怒るからきらい」などともいい、教育上よくないと思うが、そういわれると、自然と私の顔はほころぶのである。

坏爸爸

我的小孩是刚满四岁的女孩。小孩的容貌在短期内会不断变化,曾有过三次我觉得我的孩子可爱。然而,也有六次竟让我觉得纳闷,她怎么那么丑。

现在虽说长相属于一般。但她的可爱之处仍然如旧。所谓溺爱子女是不好的,但说句老实话,我倒也乐意放纵她。

可是,大约一年前,她和我不太亲近了。原因好像是把她赶出我的工作间,此外,也不太和她一起玩了吧。如今,只有当我空闲时才去照顾她,所以,即使想要抱抱她,她也是躲得远远的。

做爸爸的真是伤心啊!

我娇惯孩子,这一点她是知道的,所以只有在企图躲开妈妈去拿点心时,才会来叫我“爸爸,抱抱”。被她这么一叫,我这个当爸爸的整个身体好像都酥软了一般。

但是,最近这种情况发生了变化。我想锻炼一下自己那虚弱的身体,鼓起很大的勇气,开始做体操和跑步。

大白天的,一个中年男子在那一带呱嗒呱嗒地跑步,不太好看,所以想利用孩子,装成带孩子玩耍的样子,和她一起跑。

“爸爸,跑步去!”

她来约我了。

不久,我发现在离我家约五分钟的地方有块空地,那里堆着土,像一座小山。

“爸爸,爬山去!”

她说。

我和孩子一起去爬山,牵着她的手从很陡的山坡上跑下来,接着,又牵着她的手让她爬坡。逐渐孩子有了勇气。最近,会一个人一步一滑地爬上去了。

看着她的背影,傻爸爸这样想,“等上了小学后,带她去日本阿尔卑斯山,还可以把她培养成女子登山运动员呢!”

就这样,随着与她一起玩耍的时间增多,她开始与我亲热起来。由此,我完全成了娇惯孩子的爸爸。

“爸爸和气,我喜欢;妈妈好生气,我讨厌。”

最近,她竟这样说。虽然这在教育方面是有问题的,但经她这么一说,我的脸上很自然会泛起笑容。

日漢対訳読物 10 潘老人

唐の元和年間(806~820)のことである。

河南の嵩山(すうざん)少林寺で、大風が吹いたことがあった。風がようやくやんだ頃、杖をついた老人が門を叩いた。

「すみません、一晩、宿をお借りしたいのじゃが」

すると、門の中から面倒くさそうな声が返ってきた。

「門はもう閉めました。外に小屋があるでしょう。そこに泊まりなされ」

小屋には寝床もなければ、筵(むしろ)一枚ない。しかし、老人は何も言わずにその小屋に泊まった。

二更(注:夜十時頃)を回った頃、僧侶の一人が目を覚まし、門の外が妙に明るいことに気づいた。灯りの出所は老人の泊まっている小屋であった。

不審に思いながらそっとのぞいて驚いた。

何もなかったはずの小屋の中には豪華な褥(しとね)が敷かれ、帳(とばり)がしつらえてある。しかも、膳まで用意されており、珍味佳肴が並んでいる。老人は膳を前にして悠然(ゆうぜん)と飲み且つ食らっていた。

一体、いつの間にこれだけの物を持ち込んだのか、と僧侶はいぶかしく思った。部屋には老人一人きりで、従僕らしい姿は見られない。僧侶は同輩を呼び、ともにこの光景を見守った。しばらくすると、老人は柔らかな褥に身を横たえて眠り込んだ。

五更(注:朝四時頃)を回った頃、老人は起き出した。口をすすぎ、顔を洗うと、懐から拳くらいの大きさの瓢箪(ひょうたん)を取り出した。老人は褥や帳、膳などを瓢箪の中へしまい始めた。小さな瓢箪にどうして入るのかわからないが、ともかく老人が手に取って瓢箪の口へ持っていくと、入ってしまうのである。

すべてしまい終わると、老人は瓢箪を懐に納めた。小屋には元通り何もなくなった。

驚いた僧侶達は小屋の扉を開け、老人の前にひれ伏した。

「失礼をいたしまして、申し訳ありません」

「いやいや、まあまあ、大したことではござりませぬ」

僧侶達が老人に名前を問うと、「潘と申します」と答え、南岳(注:湖南省の衡山)から太原(注:現山西省)へ向かう途中だとのことであった。

その後も潘老人の姿は時折、見かけられたという。

(唐『原化記』)

潘老人

这件事发生在唐朝元和年间(806~820)。

在河南的嵩山少林寺,刮起了大风。在风渐渐停了的时候,有一个拄着拐杖的老人敲门。

“对不起,能让我在这儿借宿一晚上吗?”

这时,门里传出了不耐烦的声音说。

“门已经关上了。门外不是有个小屋吗?就在那儿呆着吧。”

小屋里没有铺盖,也没有草席。但老人什么也没说,就在那个小屋里住了下来。

在过了两更(夜里十点左右)的时候,有一个僧侣醒了,发现门外非常明亮。光亮来自老人住的那个小屋。

那个小屋里过去什么都没有,可现在却铺放着豪华的褥子,还支起了帷帐。而且还摆放了食案,堆满了美味佳肴。老人在食案前悠然地吃着东西,还喝着酒。

这个僧侣感到很奇怪,心想这个老人什么时候搬进这么多东西呀。他就把师兄弟叫来,一起盯着看这个老人。过了一会儿,老人躺在柔软的褥子上睡着了。

在过了五更(早晨四点左右)的时候,老人起来了。他漱了口,又洗了脸,接着从怀里拿出了一个拳头那么大的葫芦。老人开始把褥子、帷帐和食案等往葫芦里装。那么小的葫芦怎么能装进呢?可是老人用手把东西往葫芦口那儿一放,东西就进去了。

都装完以后,老人把葫芦揣进了怀里。小屋里就和以前一样什么都没有了。

僧侣们都惊呆了,打开了小屋的门,跪在了老人的面前。

“失礼了。对不起。”

“哎呀呀,算了吧,不值一提。”

僧侣们请教老人叫什么名字,老人说:“姓潘。”潘老人说是从南岳(湖南省的衡山)到太原(山西省)路过这儿。

据说后来还有人看到过潘老人的身影。

(唐《原化记》)

日漢対訳読物 11「ほのぼのローン」

「ほのぼのした」という語句を説明していたときのこと。学生たちが゗メージをつかめるようにと、この語句が当てはまるような情景はどのようなものかを学生たちと話し合っていました。このとき学生たちから挙げられた「ほのぼのした」情景は、『春の暖かい日におじいさんとおばあさんが一緒にお茶を飲んでいる情景』、『田舎.牧場』、『犬を連れた親子がのんびり散歩している情景』など。そんな平和でゆっくりとした温かい例がいくつか続いた後、ある学生から「先生、ほのぼのローンはどうですか。」という声。

「ほのぼのローン」とは、ある金融会社がコマーシャルのキャッチコピーとして使用している言葉です。暖かさやのんびりした感じ、やさしい゗メージとは結びつきにくい金融業界が、敢えて近づきがたい゗メージを隠すために、「ほのぼの」という言葉を使ったのではないでしょうか。

学生からの質問がなければ、私は日本語教師でありながら、そのコマーシャルのキャッチコピーを何ら気に留めなかったでしょう。が、考えてみると「ほのぼのとローンをする」「ほのぼのとしたローン」なんて言う人はいません。実はかなり思い切ったキャッチコピーだったのですね。教師は日本語を教える立場ですが、このように、普段気付かない日本語の使い方や面白さを学生から教わっていることも多いのです。

“让您感到温暖的贷款”

那是我给学生们讲解“感到温暖的”这一词句时的事情。为了让大家能掌握该词句所表达的概念,我和学生们一起对其适用于何种情形进行了讨论。此时,学生们列举的“感到温暖的”情景有:“在春天暖和的日子里,老爷爷和老奶奶在一起喝着茶”;“乡间·牧场”以及“家长和孩子一起牵着狗悠闲散步的情景”等等。在列举了几个类似的和平而安逸、暖人心房的例子之后,一个学生问道:“老师,那‘让您感到温暖的贷款’也属于这种情形吗?”。

所谓“让您感到温暖的贷款”,是一家信贷公司在做广告时使用的吸引人的词句。信贷行业在人们的心目中是很难与温暖、悠闲的感觉以及和善的印象联系在一起的,之所以使用了“感到温暖”一词,我想大概是为了掩饰其难以接近的印象吧。

尽管我是日语教师,但如果不是学生提问的话,也许不会留意那一句广告词吧。不过,仔细想想看,在现实生活中,没有人会说“怀着温暖的心情去贷款”、“暖人心田的贷款”。实际上,可以说它是一句非常大胆的广告词。教师的工作是教学生们学习日语,但是像这样,平时自己没有注意到的日语的一些用法及其有趣之处,有很多是学生们教给我的。

日漢対訳読物 12 乞食と福の神

乞食(こじき)が,ぼろぼろの袋(ふくろ)を担(かつ)ぎながら,街(まち)を歩いていました。歩きながら,独り言(ひとりごと)を言っていました。「どうして,お金持ちというものは,お金や物を、たくさん持っている上にも,なお,もっと欲しがるのだろう。人というものは,その人のみについた分(ぶん)ということを,知っていなくてはいけない。」

そのとき,どこからか,ふいに福の神(ふくのかみ)が現れました。「わしはお前の今の独り言を聞いて,感心(かんしん)したよ。ちょうど、よい具合(ぐあい)に,ここに金貨(きんか)をたくさん持っているから,お前にみんなやってもよい。さあ,その袋へ入れてやろう。」

乞食は喜んで,袋を福の神の前に,出しました。

「ところで一つ約束(やくそく)がある。それはもしこの金貨が,袋からあまって出て,土(つち)の上に落ちたら,みな塵(ちり)になってだめになってしまうということだ。お前の袋は,大分(だいぶ)古いようだから,あまりたくさんいれないほうがよいぞ。」

乞食は大(おお)喜んで両手で,袋の口を広げました。

その中へ福の神は,バケツに水を入れるように金貨を注ぎ込みました。

「もう,これくらいで,いいだろう。」

「もうすこし、ください。」

「わしは構(かま)わないが,ふくろが破れ(やぶれ)はしないか。」

「大丈夫(だいじょうぶ)ですから,もうすこし。」

「 おい,もうこんなに、大金持ちになったぞ。」

「でも,もう一つかみだけ。」

「さあ,これで一杯(いっぱい)だ。」

「でも,もう一枚だけ。」

「よし,いれるぞ。」

そこで,福の神が,一枚の金貨を落としますと,一緒にたちまち袋の底(そこ)がぬけて,金貨は,一度に土の上に落ち,そうして,約束通りに,みな塵になってしまいました。

それと一緒に,福の神の姿(すがた)は消えて,乞食の手には,空(から)の袋が,残っただけでした。

つまり,乞食は,この袋の底が抜けただけ,前よりも損(そん)をしたことになりました。

乞丐与福神

一个乞丐肩背一个破袋子在街上走。他边走边自言自语地说:“为什么有钱人已经有了很多的钱和物,还想要更多呢。人啊,应该懂得各自的本分。”

这时,不知从什么地方忽然出现了一个给人带来幸福的神仙——福神。

“我听了你刚才的自言自语,很钦佩你的为人。正好,我这里有很多金币,可以全部都送给你。来吧,我给你装进袋子里。”

乞丐很高兴,把袋子伸到福神面前。

“不过,我们得有言在先。假如金币太多了从袋子里滚出来掉到地上,它们就会全部变成尘土,再也没有用了。你的袋子看样子很旧了,最好别装得太多了啊!”

乞丐非常高兴,用双手撑开了袋子口。

福神就象往铁桶里倒水那样把金币装进袋子里。

“差不多了吧?”

“再来点。”

“我倒是没关系啊,可是你的袋子不会破吗?”

“没问题,再来点。”

“行啦,你已经是大财主啦。”

“再来一大把!”

“行啦,这下已经满了。”

“再来最后一枚。”

“好吧,给你放。”

说着,福神把一枚金币往下一丢,只见袋子立刻漏了,金币一下子全部掉到了地上,们事先说好的那样,金币全部变成了尘土。

同时,福神也不见了,乞丐手中只留下一只空袋子。

乞丐除了袋子的底漏了以外,什么也没得到,他比以前更穷了。

正像他 日漢対訳読物 13 「ワリカン文化」

ある聴解問題を解いているときのこと。男女2人の会話を聞いて、答えを選ぶタ゗プの問題だった。問題は、「男の人はどうしてカラオケに行かないのですか。」会話は次の通り。

「女:ねぇねぇ今日カラオケに行かない?/男:うーん、こないだ遊びすぎちゃって、実は余裕ないんだ。」

答えは4つの選択肢中の「お金がないからです」だ。

学生から、次のような質問が出た。「どうしてこの女の人は男の人の分までカラオケのお金を払ってあげないのですか。わたしの国では友だちがお金をもってないときにその人の分も出してあげるのに。」ここで、単なる聴解問題対策の授業が、異文化理解の授業に早変わりする。

日本人の「ワリカン文化」は外国人留生にとって、ときに妥当に、ときにうっとうしく感じられる出来事の一つである。日本人学生と交流したりゕルバ゗トをしたりという体験を通して日本人の「ワリカン文化」に驚きあきれる外国人留学生は少なくない。

日本人はどのような気持ちでワリカンするのだろうか。他人のお金なんて出したくない、自分が食べたり使ったりした分だけを出せばいいというケチで合理的な考えから?いや、決してそうではないだろう。実際に、レストランや喫茶店のレジ前で、「わたしが出します」「いや、わたしが」と言い合う人々の姿をあちこちで見かける。これは「相手に払わせてはいけない。」「自分が負担しなければ。」という気持ちからお勘定を自分で出すと主張しあう日本人の姿である。

しかしこのような「主張」、「気の遣い合い」が疲れることは言うまでもない。そこで人間関係を長続きさせるには「気を遣わないこと」が一番だという考えから「ワリカン文化」は浸透していったのではないだろうか。一見、冷たく、けちに見えるワリカンの習慣も実はその経緯を考えてみると日本人の和の心につながっているのかもしれない。

ともあれ、聴解問題がこのような形で異文化理解の授業になるのは学生に余裕があるいい証拠だ。

“均摊文化”

记得有一次上课时,让同学们练习解答听力问题。练习方法是听完男女二人的会话录音后,根据会话内容选择正确答案。

会话内容如下:

女:今天一起去卡拉OK吧?

男:呀,最近总出去玩,手头不宽裕。

根据这段会话,请回答“为什么男方不去卡拉OK呢?”。在四个供选择的答案中,正确答案为“因为他没有钱”。

听了解答之后,一位同学问道:“为什么女方不把男方的费用一起付了呢?在我国,如果朋友没有钱,另一方是会替他代付的”。于是,这一节学习听力问题解答方法的课转变成了理解不同文化的课堂。

对于日本人的一些习惯或作法,外国留学生有时会觉得很正当,而有时却认为很烦琐,“均摊文化”即为其中之一。不少留学生在同日本学生的交流中,以及通过打工等亲身经历对日本人的“均摊文化”很感惊讶。

那么,日本人是怀着什么样的心情与他人均摊某项费用的呢?是出于不愿支付他人的费用,认为只要付清自己所消费的部分即可这种吝啬而又合乎道理的想法吗?不,我想绝不是如此。事实上,在一些餐馆或是咖啡厅的收款台前,我们也经常目睹顾客之间互相争着要付款的情形。这正是日本人出于“不能让对方付费”、“今天得由我来付款”这种心情而互相坚持要自己付款的。

但是,不言而喻,像这种“主张”以及“互相为对方考虑”的做法会令人精神上很疲劳。为了使人际关系不会因此而受影响,人们认为最好的办法是在这一问题上双方“不必费心”。基于这种思想,“均摊文化”才得以在人们之间渗透吧。乍一看,“均摊文化”的习惯似乎很冷漠、吝啬,但是在了解了它所产生的背景后发现,这种习惯或许与日本人的“和睦之心”有关。

总之,听解练习课能以这种形式转变为一堂了解不同文化的课时,可以说是一种好现象――学生们除了学习课堂知识外,还能积极主动地了解与此相关的其它知识。

日漢対訳読物 14 「回し飲み」

ある暑い日のことです。休み時間に、学生たちがペットボトルの回し飲みをしていました。

「回し飲み」というと、日本人の感覚では同じ容器に複数の人間が口を付けて飲むことを想像します。

ところが、学生たちは皆、容器の飲み口から数センチ離し、口が容器に触れないようにして飲み物を口に流し込んでいたのです。その光景がどこか不思議だったので、ある韓国人学生に質問してみると、韓国では友達同士でも、日本人がするような「回し飲み」はしないのだというのです。私の驚いた顔を見て、不思議に思ったらしい韓国人学生は、「じゃ、先生、日本人はどうやってみんなで飲むの?」と質問してきました。

日本では普通、同性の友人同士なら、時には相手が異性であっても、同じ飲み口から「回し飲み」をすることに抵抗はありません。逆に友達に飲み物をすすめられた時に「数センチ離して」飲んだりしたら、少し失礼な印象を与えてしまうでしょう。「回し飲み」をしようという時点で、それは、ある程度、親しい人だと思われていると考えたほうがいいかもしれません。逆にいうと、たいていの場合、「回し飲み」をしたくない人には同じ容器をすすめることがありません。日本人は、「回し飲み」をする際にもさりげなく相手との「心理的な距離」を見極めているのです。

“轮流喝饮料”

有一天,天气很热。在休息时间,学生们轮流着喝一瓶装在硬塑料瓶中的饮料。说到“轮流喝饮料”,日本人会觉得是几个人使用同一个容器,而且是嘴对着容器口喝。

然而,学生们喝饮料时,嘴离开瓶口几公分,不接触瓶口而是将饮料倒入口中。看到这种情景,我觉得有点儿不可思议,于是询问一位来自韩国的学生。据他说,在韩国,轮流喝一瓶饮料时,即使是朋友之间也不会像日本人那样嘴对着瓶口喝。听了这番话,我有点儿意外,而看到我脸上显出惊异的神色,那位韩国学生似乎觉得不可理解地反问我道:“老师,那么日本人是如何轮流喝一瓶饮料的呢?”。在日本,同性朋友之间,有时即使对方是异性,一般并不忌讳从同一个容器口轮流喝饮料。相反,如果接过朋友递过来的饮料,喝时嘴离开瓶口几公分的话,我想会给对方留下不礼貌的印象吧。也许应该如是考虑:欲与他人轮流喝一瓶饮料的人,此时已把对方看作是与自己关系亲密的人。反过来说,一般情况下,如果不愿意与对方同饮一瓶饮料,就不会主动将饮料让给对方。日本人在轮流喝同一瓶饮料的时候,也若无其事地在衡量着与对方之间的“心理距离”。

日漢対訳読物 15 桜に思う

春が来た。中国の大地には、季節の交代を告げる色様々な花が咲いているだろうと思う。日本は桜のシーズンだ。亜熱帯の沖縄では、1月から咲いているが、そろそろ九州や四国からも、桜の開花の便りが届くころだ。日本は南北に細長い国だ。長い時間をかけて、南から北へ、順に桜の花が開いていく。

桜(主にソメ゗ヨシノ)の開花日が等しい地点を結んだ線を、「桜前線」と呼んでいる。前線が東京を通過するのは3月末ごろ。東北地方の大部分は4月。5月になると、やっと北海道の各地に至る。

桜は日本人の生活の中にも深く根をおろしている。

中国と違い、日本の学校は4月に始まる。小学生になった子供と親たちが手をつないで入学式に出かけ、桜咲く校庭で記念写真をとるのは、昔から変わらない日本の風物詩だ。

「花見」も春の楽しみの一つだ。人々は桜で有名な行楽地へ出かける。東京の上野公園や新宿御苑、大阪の大阪城公園や「造幣局の桜の通り抜け」には多くの人たちが押し寄せる。

花見客たちは桜の下に座って酒を飲んだり、食事をしたりして春の一日を楽しむ。歌ったり、踊ったりする人もいる。会社などでは、職場の同僚たちが桜の下で宴会を開く。宴会の幹事はいい場所を確保しなければならず、夜の宴会のために、昼から「先鋒隊」を公園へ派遣することもある。

古都・京都は桜の名所が多い。秋の紅葉の美しさが名高い嵐山は、桜でも有名だ。ここには、桜のある景色を描写した故周恩来首相の詩碑もある。日本に留学した周氏は1919年4月5日に嵐山を訪れた。ピンクの桜と、緑の松は霧雨の中にけぶっていた。しかし、しばらくすると、雲間から太陽の光が差し始めた。そんな光景と、自らの思いを込めながら、周氏は詩を詠んだ。碑に刻まれた詩は、この時のもので、60年後の1979年4月、トウ穎超夫人を迎えて詩碑の除幕式が行われた。

周氏が嵐山を訪ねた1カ月後、中国では五四運動がまき起こる。周氏は帰国して運動に加わった。嵐山の詩は革命家の若い日の記録として残っている。

1972年9月、周氏は首相として、日中国交正常化の交渉に臨み、北京を訪れた田中角栄首相ら代表団を、歓迎夕食会を開いてもてなした。人民大会堂の華やかな会場では、解放軍が奏でる日本と中国の歌の数々が流れた。最初の日本の歌は「さくらさくら」だった。周首相は、嵐山の桜を思い出しただろうか。

中国にも、たくさんの桜があるようだ。

私が仕事で、北京に駐在していた時、家族で、玉淵潭公園へ、花見に出かけた。訪れた時期が少し早かったためか、桜の花は少なかったが、公園は大勢の人たちでにぎわっていた。人民日報海外版は、玉淵潭公園には7種類、約3000本の桜があると紹介している。一斉に、満開になると、さぞかし美しいだろう、と想像している。

中国の人たちがたいへん親しんでいる春の花は何だろうか。やはり牡丹だろうか。私が中国の牡丹を初めてじっくり見たのは、山東省済南市の公園を訪ねた時だった。ずいぶん大きな花だなと思った。梅の花もまた中国の人たちに愛されているように思う。

桃園も、菜の花畑も美しい季節だ。うららかな一日、中国の春の花を見ながら、散歩してみたい。

五十川 倫義(朝日新聞)

樱花

五十川 伦义

春天来了。中国大地当是百花斗艳,正在宣告季节的交替吧。日本正值樱花时节。位于亚热带的冲绳,一月份花就开了,接下来,从九州、四国,很快就会传来樱花开放的消息。日本地形南北狭长,樱花从南到北依次开放,能开很长时间。

把樱花(主要是“染井吉野”樱花)同时开放的地点连接起来,这条线叫“樱花前线”。前线通过东京大概是在3月末,东北大部分地区是4月份,到了5月份,才能到达北海道各地。

樱花的根,也深深地扎在日本人的生活中。

和中国不同,日本的学校是4月份开学。刚刚成为小学生的孩子们拉着爸爸妈妈的手参加入学典礼,在樱花盛开的校园里照相留念,这是一首经久未变的日本风情诗。

“赏花”也是春天的乐趣之一。人们去有名的樱花胜地赏樱。东京的上野公园、新宿御苑,大阪的大阪城公园和“造币局樱花通道”,总有很多人纷至沓来。

赏花的人们在樱花树下饮酒、吃饭,享受一日春光。也有人唱歌跳舞。公司的同事们在樱花树下举行宴会。为了晚上的宴会,组织者们有时白天就要派“先遣队”去公园,以确保能占一个好地方。

古都京都有很多樱花名胜地。以秋天红叶之美而闻名的岚山,樱花同样负有盛名。这里有周恩来总理描写樱花景色的诗碑。1919年4月5日,当时在日本留学的周恩来来到岚山,看见粉红色的樱花和绿色的松树在雨雾中若隐若现,不久,阳光从云间照射下来。面对此景,周恩来赋诗抒怀,碑上刻的就是这一首。60年后的1979年4月,邓颖超夫人访日时,举行了诗碑的揭幕典礼。

周恩来游岚山一个月后,中国掀起了五四运动。周恩来回国参加了运动。岚山之诗,记录了革命家的年轻岁月。

1972年9月,周恩来作为总理举行欢迎宴会,招待来北京进行中日邦交正常化会谈的田中角荣首相率领的代表团。在人民大会堂金碧辉煌的宴会厅,人民解放军奏起了日本和中国的乐曲。第一首就是日本的“樱花”。不知那个时侯,周总理是不是想起了岚山的樱花。

中国好象也有很多樱花。

我因工作常驻北京时,曾全家去玉渊潭公园赏花。可能是去得稍早了一点,樱花还很少,可是公园里人很多,熙熙攘攘,十分热闹。人民日报海外版介绍说,玉渊潭公园的樱花有7种,约3000株。可以想象,这些樱花一齐盛开的时候,一定是非常美的。

中国人最喜欢春天的什么花呢?大概还是牡丹吧。我第一次仔细观赏中国的牡丹,是在山东省济南市的公园里。当时觉得牡丹花可真大。印象中,梅花也很受中国人的喜爱。

春天来了,这是一个桃花、菜花也非常美丽的季节。真想在明媚的日子里,一边散步,一边欣赏中国春天的花。

日漢対訳読物 16 桜を知る

王 京

私は去年3月末に日本に着いたが、空気はまだやや冷たかった。何人かの日本の友人に会うと、最初の言葉は決まって「いい時期に来ましたね」であった。この「時期」は言うまでもなく、桜の季節である。

今、日本では「花」といえば、説明を加えない限り、必ずと言っていいほど桜のことをいう。しかし、昔からそうだったわけではない。西山松之助先生の研究によれば、古くは「花」といえば梅の花だったが、後になって次第に桜に定着してきたそうだ。詩を詠みながらお酒を飲み、歌や踊りを楽しむということは、宮廷貴族の「風流」な花の宴を物語っていたが、これは大陸への憧れから生まれた模倣である。ただ、「花」の゗メージを桜に集中させるのは、日本人の独特な美的感覚だと言わざるを得ない。

外国人の心の中でも、桜は日本を代表している。中国でも日本で制作された宣伝用の絵を常に目にすることができる。絵の上部には、日本のシンボルとされる富士山がうっすらと雪化粧をしてそびえたち、その山麓(さんろく)をみめ麗しい新幹線が疾走する。手前の一角をみると、斜めに何本かの桜が満開して、薄いピンクと澄み切った青空とがよく映えている。たとえ、富士山を日本人の心の中の永遠の古里といえば、新幹線は日本経済の飛躍的発展を表しており、桜は日本人の自然に対する思い、美的風情のシンボルだと言えよう。

中国で花といえば、人々は豪華絢爛たる牡丹(ぼたん)を思い浮かべるだろう。また、優雅で奥ゆかしい蘭の花、雪の中で鮮やかに咲く梅の花、すらりと美しい蓮の花„„地域の違い、経歴の違いによって、思い浮かべるものも多様である。日本と比べ、多くを包容している気がする。この点において、斎藤正二氏の見解はかなり面白い。同氏は、日本の国の花―桜は社会神話であり、民族主義、国家主義の産物であるという。これは、「花と言えば桜、人と言えば武士」という言葉からもその面影を見ることができる。

もちろん、日本人の桜に対する愛着を政治に帰結させることはできない。中国人と日本人の花を観賞する最も大きな違いは、中国人の対象拡散に対する日本人の集中だと言うより、中国人は開花」を観賞するのに対し、日本人は「落花」を観賞することだと言った方がいいかもしれない。中国人は、花が満開した時の鮮やかで美しい様子が好きであり、日本人は、花が散り去る時の淡々とした哀傷を観賞するようである。

桜の特徴は姿が消えやすいことで、普通1週間ももたず、しかも風や雨に会えば、一瞬にして散ってしまうのである。京都の有名な「哲学の道」に沿って散策すると、春日よりの日差しの切れ間から、ひとしきりひとしきりとそよ風が頬を撫でてゆく。それにつれて、桜の花びらが舞い落ちる。地面に落ち、谷川に落ちる。そして、さらさらと流れ去る川はこれらの精霊を運んでゆっくりと、しかも戸惑うことなく、遠くに流れ去る。確かに、ある種の生命のはかなさ、盛者必衰の感を覚えてしまう。

桜にはある種の魔力があるかもしれない。それでもって、遠い昔と今を結びつけ、慎重というものを奔放へと導き、無常の感嘆を現世の大事なものに変えているのかもしれない。桜を知り尽くせば、日本人を知り尽くすことになるのではないかと思われてならない。

王 京(人民日報)读解樱花

王 京

我是去年三月底到的日本,空气中还略带着些寒意。几位日本朋友见到我们的第一句话便是“来得正是时候”,这个“时候”,不用说,是指赏樱时节了。

今天在日本说到“花”,如果不加以说明,几乎一定指的是樱花,然而并非自古如此。根据西山松之助先生的研究,“花”在上古,最初是梅花,后来才逐渐定格于樱。吟诗饮酒,丝竹歌舞,体现着宫廷贵族“风流”的花宴,可以说是源于对大陆憧憬之下的模仿。然而“花”的意象凝聚于樱之中,则不得不说是出于日本人独特的审美意识了。

在外国人心中,樱花也代表着日本。记得在国内常常可以看到日本制作的一幅宣传画:上面是被认为最具代表性的日本——青峻的富士山顶白雪皑皑,头部呈流线形的新干线高速列车由山麓呼啸而过,近处一角,是斜斜的几枝绽放的樱花,淡雅的粉红与澄净的蓝天相互映衬。如果说富士山是日本人心目中永远的故乡,新干线是日本经济腾飞的标志,那么樱花则是其自然感受,审美情趣的象征。

在中国,提到花,人们也许会联想起雍容华贵的牡丹,清幽素雅的兰花,傲雪怒放的梅花,婷婷玉立的荷花„„,因地域不同,经历不同,浮现出的意象不一而足。相对日本而言,显现出一种多元包容的姿态。在这一点上斋藤正二的意见颇为有趣,他认为日本的国花樱花,是一种社会神话,是民族主义、国家主义的产物。这可以在“花推樱花,人数武士”的口号中看到一些影子。

当然,日本人对樱花喜爱不能归结于政治。中国人与日本人的赏花的最大的不同,也许并不在于中国人的对象扩散而日本人的集中,而在于中国人赏“花开”,日本人则是赏“花落”。中国人喜爱鲜花盛放时的娇艳美丽,而日本人则欣赏落花纷飞时那份淡淡的哀伤。

樱花的特点便是易逝,一般只能持续不到一周,而一遇风雨便会满树凋零。沿着京都著名的“哲学之道”漫步,春日斜阳之中,阵阵微风拂过,白色的樱花花瓣便飞舞而下,轻盈地散在地上,落入溪中,而淙淙的流水就轻轻载着这些精灵缓缓地,却是坚决地远去了。的确有一种生命易逝,盛者必衰的感触。

樱花也许是有一种魔力,联系着远古与今天,引导着拘谨走向奔放,将无常的感叹变为现世的珍惜。也许读懂了樱花,便会读懂日本人吧。

王 京(人民日报)

日漢対訳読物 17 桜と牡丹

西園寺 一晃

前々回のコラムで王京さんと五十川さんが桜について書いていました。今日は4月15日、東京の桜は散りはじめ、いたる所で花吹雪が見られます。世の中の不景気を吹き飛ばすような染井吉野の艶姿を見ているうちに、私はかつて北京で友人と交わした花談義を思い出しました。私は中学校3年から大学を卒業するまで、10年間を北京で過ごしました。当時の中国は政治運動の連続で、経済的にも大変貧しい時代でした。東西冷戦の最中で、緊張した毎日でしたが、それでも学生たちはそれなりに生活をエンジョ゗していました。当時の中国は外国との交流はあまりありませんでした。でも周りの学生たちは結構外国のことを知っていて、日本人の桜好きのことも知っていました。

北京大学在学中の春のある日、学友の1人がおもしろい議論をふっかけてきました。

「やっぱり日本人は桜そのものだな、国民性といい、思考方法といいまさに桜だ。ところで君は中国人を花にたとえればなんの花だと思う」というのです。私たちは「花と国民性」について大いに議論しました。

彼の意見によると、日本人は桜、中国人は牡丹だといいます。桜はパッと咲いてパッと散る、咲くときも一緒、散るときも一緒。散り方が美しい。一輪一輪の花はこれといった特徴はなく、目立たないが、樹全体、林全体の花となると圧倒されるような華麗さと迫力がある。つまり日本人は、行動様式が集団主義的で、規律を重んじ、集団からはみ出すことはしない。1人ひとりの個性はないが、集団では大きな力を発揮するというのです。

一方中国人は、個性が強くあまり集団行動は好まない。他人と同じことをするより独創的なことをしたいという意識が強い。牡丹という花は、同じ木の花でも咲く時期は一緒ではないし、形や色が微妙に違う。同じ木の花同士妍を競う。だから中国人的だというのです。

たしかに日本人はあまり自己主張はしませんし、議論が下手だといわれています。それに比べ中国人の議論好きには定評があります。彼の「中国の指導者は大変だよ、何億という個性の固まりをまとめなければならないのだからね」といって笑った顔が印象に残っています。

時代が進み、世代が変わる中で、「桜」の日本人は変わりつつあります。たとえば会社というのは1つの集団ですが、古い世代はこの集団のために個人や家庭を犠牲にしてまで粉骨砕身働いてきました。公休をとるのも何となく後ろめたさを感じるほど「会社人間」が多かったのです。今の若い社員は組織に縛られるのを嫌います。もちろん公休は権利として堂々ととります。前は年に1,2度あった社員旅行は、最近あまりしなくなりました。若い人が嫌がるからです。旅行は個人で、あるいは気のあった者同士で行くべきであり、個人の時間を制約されたくないという理由です。堂々と自己主張する人も増えました。これは決して悪いことではないと思いますが、やはり年配者の中には何となく割り切れない人がいることも事実です。これは良い悪いというよりジェネレーション・ギャップでしょう。

「牡丹」の中国はどうでしょうか。「新人類」という言葉も生まれるほど、やはり世代間の考え方や習慣の違いは大きくなっていると聞きます。

絢爛(けんらん)たる中華文明にはぐくまれた中国人と、その文明から大きな影響を受けた日本人。しかし若い世代は本来の伝統的文化に加え、グローバリズムが席巻する中で、さまざまな文化の影響を受けるのは必至です。新しい中国人と日本人の誕生です。

私はいくら時代が変わり、世代が変わっても、「桜」と「牡丹」はそれぞれよき伝統は引き継いでもらいたいし、なによりも仲良くしてもらいたいと切に願います。日中の友好と協力はゕジゕの安定と平和の基礎ですから。

樱花与牡丹

西园寺 一晃

上上次的栏目中,王京和五十川就樱花畅谈了各自的感受。今天是4月15日了,东京的樱花已经开始凋零,到处落“樱”缤纷。

欣赏着怒放的染井吉野樱花直欲把世间的不景气吹得云飞雾散似的艳姿,我想起了在北京曾经和朋友进行的一场关于花的清谈。

从中学三年到大学毕业,我在北京住了十年。当时的中国,政治运动不断,经济也极为困难。而且,正值东西方冷战,每天都很紧张。但是,学生们还是以自己的方式享受着生活。当时的中国与海外几乎没有交流,可周围的同学对外国的情况知道得并不少,也知道日本人喜欢樱花。

在北京大学上学的一个春天,一天,一位同学向我提起一个很有意思的话题。

“日本人其实就是樱花嘛,国民性也好,思维方式也好,简直就是樱花式的。如果用花来比喻中国人的话,你说用什么花好?”我们就“花与国民性”展开了热烈的议论。

依他说,日本人是樱,中国人是牡丹。樱花开得快谢得也快,一起开放,一起凋谢。花谢的样子非常美丽。一朵一朵的樱花单看时没有什么特征,不怎么显眼,可是,如果是一棵樱花树、一片樱花林,其华丽和气势能够压倒一切。也就是说,日本人的行为方式属于集团主义,注重纪律,不脱离集体。具体到每个个人,没有什么个性,可是集合起来,就能发挥巨大的力量。

相反,中国人个性较强,不太喜欢集体行动。倾向独创,不愿与他人雷同。牡丹花即使同处一株,花期不同,花形花色彼此微妙区别,相互竞艳。因此,牡丹更像是中国人。的确,一般来说,日本人不太强调自我,不善论辩。相比之下,中国人的好辩是有定评的。“中国的领导人太难当了,要把几亿充满个性的人拢到一起。”同学说这话时的音容笑貌,至今难忘。

随着时代进步和世代交替,属“樱”的日本人也在变化。比如说,公司是个大集体,有很多“公司人”为了这个集体,到了可以牺牲个人和家庭,为公司粉身碎骨工作的程度。休个公休日,都要感到有点说不出来的内疚。现在的年轻职员则不同,不愿意受组织束缚,公休日作为自己的权利,堂堂正正地享受。以前公司每年要搞

一、两次集体旅行,现在也不怎么搞了,因为年轻人不太喜欢。理由是,旅行应该是个人或者是同合得来的朋友一起去的,个人的时间不希望公司支配。另外,公开坚持自己主张的人也多起来了。我认为这不是坏事,当然同时也要承认,有些上点年纪的人对此多少有些不快也是事实。这不是好与不好的问题,应该说是一种代沟吧。

属“牡丹”的中国现在如何?我听说,已经到了出现“新人类”的程度,不同世代之间想法和习惯的差异,同样也是越来越大。

绚烂的中华文明哺育的中国人,受中华文明极大影响的日本人。然而,年轻的一代在接受传统文化的同时,身置国际化浪潮的席卷之中,各种文化必然对他们产生影响。新中国人和新日本人也就由此诞生。

不管时代怎样变化,世代怎样变化,我殷切希望,“樱花”和“牡丹”能够继承各自的好传统,世世代代,友好相处。因为,日中的友好与合作是亚洲和平与安定的基础。日漢対訳読物 18 牡丹と桜の縁 徐 志剛

花と国民性に関する西園寺先生の見解には独特なものがある。よく考えてみると、日本人を桜にたとえ、中国人の性格特徴を牡丹にたとえることは、十分に適切だとは言えないが、しかし、それほど強引でもないような気がする。

私の古里―山東省の青島にも桜が多いが、いずれも遠いところからの来客で、ド゗ツの西洋桜、日本の東洋桜と、それぞれその美しさを競っている。青島は季節的に東京よりやや遅く、晩春初夏、東京の桜がとっくに散ってしまったころ、我古里の桜はちょうど花盛りを迎えるのである。メーデー前後の何日かの休日は、絶好の花見の時期となる。

桜を「輸入」花とすれば、牡丹は中国の原産だと言えよう。牡丹は山東省荷澤と河南省の洛陽に多い。西園寺先生が訪れた済南から西に3時間ぐらい行ったところに荷澤がある。花咲く季節になると、果てしない花の大海原が広がり、東西南北から観光客が次々に押し寄せる。満開の牡丹は人々に我を忘れるほどの喜びを与えてくれるのだ。牡丹は妖艶であるわりには、辺ぴなところに育つ。それが、楊貴妃のちょう愛と文人たちの文筆のおかげで、ますます華やかさが膨らみ、早々と花王の栄冠を手にすることができたのである。

しかし、牡丹をここまで持ち上げた楊貴妃は惜しくも美人薄命で、美しくて悲しい物語を残した。

日本留学の時に、この物語の日本版続編を聞くことになるとは思いにも寄らなかった。名古屋の熱田神宮は1000年の歴史を誇る神社であるが、楊貴妃がここで牡丹と相伴って生活していたという美しい物語が伝えられている。聞くところによると、多情な皇帝は、人々の目を忍んで、楊貴妃を遠い日本に送り、楊貴妃はここで寂しい一生を過ごしたそうだ„„。楊貴妃が日本に渡ってきたというこの伝説は、人々のやるせない気持ちを幾分慰めるものである。

時代は発展するものである。先生がおしゃったように、社会も人間も少なからぬ変化を起こしている。ただ、一つだけ変わらないものがあると言えるなら、それは、日本人の桜に対する熱い愛であり、中国人の牡丹に対する一途な愛だと言えよう。

つい先日、日本・沖縄の某高校生からわれわれのところにお手紙が届き、牡丹の栽培方法を尋ねられた。彼が通っている学校は中国の学校と姉妹校を結んでおり、彼らが桜を送ったら、中国から牡丹の種が送られてきたという。どうしてもこの牡丹を無事に咲かせたいが、経験がないため、手紙で牡丹の種からの栽培方法を尋ねようとしたのである。

私は、この互いの交流と理解を象徴する桜と牡丹に祝福を捧げたい。その花が、根を下ろし、芽を吹き、花を咲かせることを願ってやまない。実は、中国の各地にも桜林があって、桜の花見はずいぶん前から中国人の春先の一大行事として定着しており、日本人も同じく牡丹の花が好きなようだ。今後、中国に桜の木がますます多くなり、日本で牡丹の花がますますきれいに咲くことと信じている。このような桜と牡丹の交流は、中日両国人民の交流の歴史に、牡丹と桜の縁として残るだろう。そして、知らず知らずのうちに、両国人民の「国民性」にも影響を及ぼすだろう。

ちなみに、ちょうど今日(4月15日)、第18回国際洛陽牡丹祭りの幕が上がる。西園寺先生はしばらく中国にいらしてないのでは?できれば、ぜひお忙しい中から、お時間を割いて荷澤と洛陽に来られ、牡丹の風貌を一目ご覧になってほしい。牡丹樱花缘

徐 志刚

关于花与国民性,西园寺先生的见解很有独到之处。细细想来,以樱花比喻日本人、牡丹比喻中国人的性格特征,虽难说十分吻合,却也不算勉强。

在我的故乡山东青岛,也有许多樱花,都是远道的来客。德国的西洋樱,日本的东洋樱,在这里争奇斗艳。青岛的季节比东京略晚,春末夏初,东京的樱花早已开过,故乡的樱花却是盛开时节。“五一节”前后,几天休假,给人们提供了极好的赏樱时机。

如果说樱花是“进口”花,那牡丹就是中国原产了。牡丹以山东菏泽和河南的洛阳为多。从西园寺先生到访的济南,西去三个小时就是菏泽。花开时节,一望无际,天南海北的游客摩肩接踵,盛开的牡丹给人们带来了忘情的欢乐。牡丹娇艳却生于僻乡,但承杨贵妃的宠爱,加之文人墨客的鼓吹,富贵有加,早早赢得花王的桂冠。

然而,成就她们的杨贵妃却是红颜薄命,留下了一个美丽而凄惨的故事。

留学日本时,没有想到,居然听到了这个故事在日本的下篇。名古屋的热田神宫,一所千年神社,流传着杨贵妃在此与牡丹相伴的美谈。据说,多情的皇帝避开人的耳目,偷偷将贵妃送到了遥远的扶桑,贵妃在这里伴着牡丹渡过了寂寞的一生„„。这个贵妃东渡扶桑的传说,给人们在遗憾中留下了些许安慰。

时代是发展的,正如先生所说,无论是社会,还是人,都会有不小的变化。如果说,有一点不会变的,大概就是日本人对樱花的热爱、中国人对牡丹的钟情吧。就在前两天,我们收到来自日本冲绳某高中的一封来信,询问牡丹的栽培方法。他们和中国的学校结成姐妹校,他们送去了樱花,对方回赠的是牡丹种子。他们一心要把这牡丹栽培成功,因为没有经验,特来信询问从种子开始的培育方法。

很愿意为这象征交流和理解的樱花、牡丹祝福,希望她们能够生根,发芽,开花。实际上,中国各地已有很多樱花树林,欣赏樱花早已成为中国人春天的一大盛事,而日本人也同样喜爱牡丹。相信今后,中国的樱树会越栽越多,日本的牡丹也越开越旺,这种樱花和牡丹的交流,将在中日人民相互交往的历史上,留下一个牡丹樱花缘的佳话,甚而潜移默化地影响两国人民的“国民性”吧。

顺便一提的是,第十八届国际洛阳牡丹节刚好于今天(四月十五日)开幕。西园寺先生有些时间没有来中国了吧?如能抽出时间,不妨忙里偷闲地来荷泽和洛阳走走,观赏一下牡丹的风采。

徐 志刚(人民日报)

日漢対訳読物 19 食在中国

野口 拓朗

年をとると、食べることに執着してくる。あと、何回飯を食えるのか。指折り数えるとまではいかないが、日々の楽しみのひとつが食事である。

「食」といえば、中国は本場である。「四本足で食べないのは机だけ」と言われるほど中国の人々は食い道楽である。おかげで、中国に滞在していた折、奇妙なものまで口に入れる幸運に恵まれた。

貴州省でのこと。車に乗っていると、突然、食堂の店先に丸裸の動物が陳座しているのが見えた。下りてよく見ると、犬の肉だった。道路の両側長さ200メートルほどにわたって犬肉を食べさせる食堂がひしめいている。初めて見る光景だった。同行した貴州省政府の職員がにやりとして言った。「ここの名物です。体が温まって元気が出ますよ」

どこに行っても、「野味」という看板にぶつかる。カエルやヘビ、タヌキ、ハトなどが檻の中で出番を待っている。上海の知人にお呼ばれした時に、カエルとヘビが出た。カエルは鳥肉のようにサクサクとして美味だった。ヘビは空揚げで、細長いせんべいのように見えた。我が家の家系はどうもだまされやすいようだ。小学生の息子は当時、足が速くなりたくて仕方なかった。同席した日本人の友人に「ボク、これを食べると足が速くなるよ」と言われてコロリだった。パクパクとたくさん口にした。その甲斐があったのか、運動会では堂々2位だった。

サソリを初めて体験したのは山東省でだった。この地方の特産で、サソリの養殖で大もうけした「サソリ大王」の記事がよく新聞に出る。これも空揚げだったが、せんべいのような口ざわりで、淡泊な味だった。北京のホテルのレストランでたまたま山東省フェゕをやっており、サソリもあった。子供達は嫌がるかとも思ったが、「スナック菓子みたい」と意外に歓迎された。

最近、日本にも直輸入されるほど、日本人の間で人気急上昇なのが上海ガニだ。「左党がシーズンを待ち焦がれる」と言われるほど、あのねっとりとしたカニのミソと熱燗の紹興酒が合うのだ。食べ頃は10月から12月まで。上海近郊にある陽澄湖、洪沢湖、太湖などが産地だ。大きさにもよるが、市場では1匹50元-100元、ホテルでは3、4倍の値段になる。

上海に赴任した頃、こんな話を聞いたことがある。ある日本人の婦人がカニを市場で買った後、ヒモで足を縛られたカニをかわいそうに思い、ヒモを切って袋に入れた。翌日、食べようと思って、袋を見たら、もぬけの殻だった。

いやな人とお付き合いで食事する場合、カニを選ぶとも聞いた。足を割って肉を出すことなどに労力を費やし、食べるのに一生懸命になるので、自然と会話をしなくてもすむからだ。カニは体が冷えるので、食べ過ぎると腹をこわす。

企業の駐在員がこぼしていたのを思い出す。秋になると、顧客や上司らがだんご状態で出張して来る。お目当てはカニ。毎晩、おつきあいした揚げ句、胃の調子がおかしくなった、というのだ。

中国にいると、日本人はどうしても刺し身が恋しくなる。北京では大連あたりからいい魚が入るが、南ではそうはいかない。作家の陳舜臣さんから面白いことを聞いたことがある。刺し身はもともと中国でも食べていたが、食中毒で死んだりしたので熱を通すようになったという。南でも゗ケスを泳いでいる魚介類を自分で選んで食べさせる海鮮料理屋があるが、確かに蒸したり炒めたりだった。「用心深いのかな」とも思う反面、東京で刺し身に目がない中国人を見ると、頭の中が混乱してしまうのだった。

食欲は人間の三大欲望のひとつだ。食文化ひとつをとってみても、中国人の嗜好は果てしがない。人間の研究という意味でも、尽きることのない、奥深い、最も面白い民族であると、私はつくづく思う。

食在中国

人上了岁数,对饮食也执著起来。虽不到掰着指头数今后还有几顿饭可吃的地步,饮食确实成了每日的乐趣之一。

说到“饮食”,中国当数第一。“四条腿的只有桌子不吃”,中国人对吃津津乐道。我在中国的那段时间里,有幸尝到了许多稀奇古怪的美味。

有一次在贵州省,我坐在行驶中的汽车里,突然发现了一家饭馆的门口,摆着一个光溜溜的动物。下车仔细一看,原来是一只被剥光了皮的狗。200多米长的马路两侧,密密麻麻的排列着卖狗肉的小饭馆。这光景还是有生以来头一回看到。同行的贵州省政府的人微微一笑,告诉我说:“这可是本地的特产,吃狗肉既暖身又提劲儿。”

在中国不论走到哪儿,都能看到写有“野味”的招牌。青蛙、蛇、狸子、鸽子等,关在笼子里,等待食客挑选。一次一位上海朋友招待我,就上了青蛙和蛇。青蛙肉像鸡肉一样松软可口,干炸的蛇肉,很像细长的脆饼干。我们家好像有那么一种容易上当受骗的遗传,儿子当时还是小学生,特别希望自己能跑的快些,同席的日本朋友就对他说:“你吃了这个,会跑快的”。儿子信以为真,大吃一通。也许是因为这一吃的缘故,学校开运动会,他居然堂堂地拿了个亚军。

头一次吃蝎子是在山东省。蝎子是山东的特产,报上不时出现一些养蝎子发大财的“养蝎大王”的报道。蝎子也是炸着吃,吃起来就象脆饼干一样,淡淡的。有一次一家北京饭店的餐厅举行山东省商品展销,其中就有蝎子。本以为孩子们可能不会喜欢这东西,没想到却很受他们的欢迎。

最近,直接从上海进口的上海大闸蟹在日本人气急升。尤其是爱喝两口的,望眼欲穿地盼着吃蟹季节的到来,鲜稠的蟹黄配上香热的绍兴酒,堪称一绝。吃上海大闸蟹的季节通常在10至12月之间。上海近郊的阳澄湖、洪泽湖、太湖等地是大闸蟹的产地。根据大小的不同,一只螃蟹要卖到50—100元,在宾馆吃,更是身价3、4倍。

在上海工作期间,听到过这样一件事情:一位日本妇女在市场里买了螃蟹,看到螃蟹被绳子绑着很可怜,就把绳子割断放进了袋子里。第二天打算吃螃蟹时,打开袋子一看,袋子里唱了一出空城计。

听人说,和不喜欢的人一起进餐,螃蟹为上选。掰开蟹腿取肉等很是麻烦,把劲儿都用在了吃上,可以不必多和对方废话。螃蟹属于凉性食物,吃多了会闹肚子。

说到这儿,想起一个企业驻外人员的牢骚话来。一到秋天,他的客户和上司就一个接一个地来此地出差,不用说都是冲着螃蟹来的。每晚作陪,把胃都吃出毛病来了。

去了中国,日本人很自然地要留恋生鱼片。在北京,可以从大连一带运来新鲜的鱼,到了南方就办不到了。我从作家陈舜臣先生那里听到过这样一件有趣的说法:中国以前也吃过生鱼片,因为发生食物中毒出了死人,就改成加热后食用了。在南方,有些海鲜馆儿把活鱼贝类放养在鱼缸里,让顾客自己挑选,但都是蒸着或煎着吃的。那时我想,“中国人真够仔细”,可是当我在东京看到大嚼生鱼片的中国人时,就不知该怎样理解才好了。

食欲为人类三大欲望之一。单拿食文化来说,中国人可说是“欲壑难填”。我常常想,从人类学的意义上说,这真是一个难以穷尽的最有趣的民族。

日漢対訳読物 20 食べ物は最高の友好親善大使

王 麗萍

「旧暦の新年と新暦の新年」という今年正月の文章の中で、著者は日本人が旧暦の祝日を新暦で祝っている習慣を取り上げている。「郷に入れば郷に従え」で、日本にいる私は新しい習慣に従っているが、古い習慣も忘れていない。つまり、日本の新暦で祝うと同時に、中国の旧暦でも祝っているのだ。結局、祝日によっては二回祝うこともある始末だ。たとえば、つい先日の「端午の節句」も、日本人が菖蒲を買って菖蒲湯を楽しむ時、私はもち米と小豆を買って帰り、国内から持ってきたナツメや葦の葉、ネジゕヤメで粽(ちまき)を包んだ。そして、そこら辺からヨモギを取ってきて家の入口に飾った。中国の旧暦では、端午の節句はまだ早いというのに„„。

作った粽はいつも友人たちに分けてあげているが、毎年好評を博している。日本の友人は、とりわけナツメに感心する。そのたびに、私は聞いてしまう。「日本は、中国や世界各地から多くの食品を輸入しているのに、どうしてナツメはないの?」当然、答えはない。中国の漢方でナツメは、補気養血(気を補い、血を造る)の働きがあると言われ、東漢時代の張仲景の『傷寒論』にある「桂枝(肉桂の枝分かれしている細い枝)スープ」は、「桂枝?芍薬?甘草?生姜」のほかに「ナツメ」が入っている。ナツメを食べて体を養うということは、だれもが知っている常識となっている。北方では、10月になると、さくさくする生のナツメが食べられる。赤いナツメだと一年を通して買い求めることができ、デパートにいけば、様々なナツメの加工食品が並んである。

日本人は、飲食と健康に気を使い、自然食品を嗜好するというのに、ナツメを食べる習慣がないとは、残念で仕方ない。そこで、私が中国から日本に帰る時のお土産は、いつもナツメの加工品、あるいはサンザシなどになってしまう。そして、周りの友人たちもだんだんとナツメに馴染んできて、しかも好きになってきている。

何をやるにも最後まで突き詰めないと気が済まないのが私の悪い癖のようだ。普通、友だちにナツメのよさを紹介し、実物を上げたらそれで十分となるだろうが、私はなんとナツメの木を友だちが植えないものかと考えてしまうのだ。偶然にも、ある大型園芸店でナツメの木の苗を発見した私は、これこそが問題解決の根本であると考えた。そこで、農園を持っている友だちに、ナツメの良さと美味しさを説明し、ナツメの木を植えることを提案したのである。意外なことに、友だちは私のこの奇想天外な申し入れを快く承諾してくれ、何本か苗を買って来て植えてみるという。6月にナツメの花の香りが漂い、10月になり、赤いナツメが枝いっぱいに実っている風景を想像すると、興奮を抑えきれない。

ナツメと同様、私は日本の友人にそのほかの種類も勧めている。ス゗カの種、ひまわりの種、カボチャの種などだ。中国ではひまわりの種の油は、コレステロールの抑制作用があり、しかも、肌の美容によい高品質の食用油として知られている。中国人の家庭では、春節や祝日にはもちろんのこと、日常もこれを手放すことはない。デパートやスーパーマーケットに、種のコーナーがないということは考えられない。日本にいろいろな味のポテトチップスがあるように、中国の種にも多くの種類がある。最近、日本の若い女の子の間で唐辛子を食べるのが流行っているようだが、ダ゗エットのためだという。私は彼女たちに勧めたい―─ひまわりの種を食べなさい。美味しくて美容にもよく、それをおやつにすると、太る心配などないから、と。

日本で、ひまわり類の種はもっぱら鳥やリスなどのペットの餌となっており、ペットショップやペットフードショップなどに行かないと、買えない。つまり、優雅な場にはふさわしくないとされているのだ。このひまわり類の名誉復帰を図ろうと、私は常に家に遊びにくる日本人の友だちをもてなした。日がたつにつれ、友だちの中には食べ方がとても上手になる人もいて、みんな美味しそうに食べてくれた。もっと後になると、私が彼女たちの炒めたひまわりの種などをいただくようになったのである。小林という友だちは、私にこんな話を聞かせてくれた。最初、彼女の家でひまわりの種などを食べるのは彼女1人しかおらず、「鳥みたい、リスみたい」と、みんなに笑われた。しかし、少し時間がたつと、子供たちが一緒に食べ始めた。普段、親とも交流が少ない子供たちだが、これを食べ始めると、不思議と会話が多くなる。最後に、彼女の旦那さんが好奇心に駆られて、幾つか食べてみる。「おい、美味しいじゃないか。鳥がこんなに美味しいものを食べているなんて、贅沢だな。」それ以来、旦那さんも一緒に食べるようになったそうだ。

現在、私が友だちの農園に植えたひまわりの苗は青々としていて、すくすくと育っている。この夏にはきっと黄金の花を咲かせるだろう。種が成って、鳥が来て食べたらどうしようかと、心配している友だちに、私は大丈夫だと言った。鳥も食べる権利がある。鳥が半分食べ、人間が半分食べる。これこそ、人間と自然の在り方なのではないか。

私は冗談半分に、自分のことを中国の種の親善大使と呼んだことがある。種の文化交流に力を尽くしているから。野口先生は、中国で多くの珍しいものを召し上がり、「食は中国に在り」という言葉を身をもって体験されているが、今度は何か日本の食品を中国の友人に紹介してほしいと思う。たとえば、納豆―─失礼。先生がお好きかどうかは存じ上げてないが、多くの中国人が臭い豆腐を嫌がるように、多くの日本人も納豆を食べないと聞いている。ただ、私は納豆大好き人間だ。しかも、私に影響されて、我家族と親戚は、皆納豆フゔンである。なんと、弟の1才になったばかりの娘も納豆愛好家となっているのだ。

王 麗萍(人民日報)

亲善食品 王 丽萍

“新历年 旧历年”一文中,作者提到日本人按新历过旧历节的习惯。入乡随新俗不忘旧俗,我现在是日本的新历过,中国的旧历也过。结果,有些节就过两次。比如刚刚过去的日本“端午”。当日本人买回菖蒲,用来菖蒲浴时,我买了糯米、红小豆,加上国内带来的红枣、苇叶和马莲草,包了粽子。还从外面采了一把艾蒿放在了门口。其实按照中国旧历算,端午还早呢。

每年包粽子,总是与朋友共享,每每得到好评。日本朋友尤其对其中的红枣,赞不绝口。这时,我总是问,日本从中国以及世界各地引进了很多食品,为什么没有红枣呢?答案自然是没有的。中医认为红枣有补气养血功效,东汉时代的张仲景《伤寒论》中,“桂枝汤”一方除了“桂枝、芍药、甘草、生姜”外,就是“大枣”。在中国,吃枣补身体是常识。在北方,10月份,可以吃到清香脆甜的鲜枣,而红色的干枣一年四季都可以买到。商店里还有各种枣的加工食品。

对饮食养生很讲究,崇尚自然食品的日本人没有吃枣的习惯总是一件很遗憾的事。每次从国内回来送给朋友们的礼物,不是枣的加工品就是山楂等类。渐渐地,周围的朋友们熟悉了枣,并且很喜欢。

干什么爱钻牛角尖是我的毛病。按理,向朋友们介绍枣的功效,送给他们实物,已经可以了。可是,我居然想到种枣树上。一次,我在一家在大型园艺店,偶然发现了枣树苗。我想这是从根本上解决问题的办法。我对一位有农园的朋友,讲了红枣的养生与美食,并建议他种枣树。对我的异想天开,朋友竟欣然应允,答应买几棵来种。想象着六月枣花飘香,10月红枣挂满枝头的景象,不能不让人兴奋。

同红枣一样,我还向日本朋友“推销”瓜子:西瓜子,葵花籽,倭瓜子。在中国瓜子油是高质量食用油,对胆固醇有抑制作用,据说对皮肤还有美容作用。中国人家里过年过节自不必说,平日里也少不了它。商店里,自由市场上,没有卖瓜子的柜台和摊点,那简直不可想象。像日本卖的各种口味的炸土豆片一样,中国的瓜子流派也很多。据说最近日本年轻女性流行吃辣椒,为的是减肥,我想对她们说,吃瓜子吧,又好吃又美容,用瓜子代替甜食,不用担心发胖。

在日本,瓜子是专门用来喂鸟和松鼠之类宠物的,除了宠物店或宠物食品专柜买不到瓜子,不登大雅之堂。为了给瓜子正名,我经常用它招待常来家玩的日本朋友。久而久之,一些人竟能很熟练地扒瓜子,吃得津津有味。再后来,我就吃他们炒的瓜子了。一位叫小林的朋友对我说,一开始她家中只有她一个人吃,大家笑话她是鸟、松鼠。没想到,时间一长,孩子们也跟着吃起来。平时和家长交流不多的孩子们,扒起瓜子来,话竟多起来。最后,她丈夫忍不住好奇,尝了几个。“嗯,味道不错嘛。鸟吃这么好吃的东西,也太奢侈了。”从此以后,丈夫也加入到吃瓜子的队伍来了。

目前,在朋友的农园里,我种下的向日葵已经绿苗茁壮,生机勃勃,相信今年夏天一定会开放出金灿灿的花朵。朋友说,结了瓜子,鸟来吃怎么办?我说,没关系,鸟也有吃的权利。鸟吃一半,人吃一半。这才是人与自然应有的关系。

我曾开玩笑地戏称自己是中国瓜子亲善大使,力促瓜子文化交流。野口先生在中国吃了很多稀奇古怪的东西,亲身体验了“食在中国”。建议您也把日本的什么食品介绍给中国朋友吧。比如纳豆。请原谅,我不知道您是否喜欢,因为我知道像很多中国人讨厌臭豆腐一样,很多日本人不吃纳豆。但我特别喜欢纳豆。并且,在我的影响下,我的家人和我在中国的亲属,大家都是纳豆谜,就连弟弟刚满一岁的小女儿也是纳豆爱好者。

王 丽萍(人民日报)

日漢対訳読物 21 強い志を持つ朋に会えた

穴吹 史士

有朋自遠方来不亦楽乎(とも有り、遠方より来る。また楽しからずや)。「論語」の冒頭に出てくるこの1節は、日本人の間でも、比較的よく知られている。私の世代では、10代の初めで覚えさせられた。40年たったいまも、新しい友と出会い、古い友人と再会するたびに、繰り返し思い出す。

孫盛林さんと初めて会った2年前にも、孔子のこの言葉が頭をよぎった。彼自身のそのときの説明によれば、「生後の9年を山東省で過ごし、その後の9年を黒龍江省で、次の9年を北京で、そしてまた9年あまりを東京に住み、今に至っている」という話だった。日中間の交通が容易、かつ迅速になったとはいえ、私は「遠方より来る」という思いを持った。

孫さんは私より15歳も年下で、彼は当時、人民日報の゗ンターネット版日本サ゗トを軌道に乗せるため、文字通り徒手空拳、獅子奮迅(ししふんじん)の働きをしていた。私もまた、印刷媒体からウェブの世界に転じたばかりで、新しい表現スタ゗ルを模索して苦労していた。孫さんに、世代、年代を超えた同志を見たのである。

「日中飛鴻」は、ただでさえ多忙な孫さんに一層の負担を強いることになった。私もまた、その後、がんを発病、入院、手術を経験する。しかし、お互い、゗ンターネットというメデゖゕの未来に揺るぎない確信を持っていたことが、この小さなコラムを続けさせたのだと思う。この間、人民日報゗ンターネット版は、飛躍的に読者を増やしたそうだし、asahi.comもまた、急成長した。

「朋」という概念は、幼時をともに過ごした仲間や、学校の級友や職場の同僚といった枠をはるかに超えて、どんどん拡大している。なにやら゗ンターネットの広がり方に似ている。実際、゗ンターネットが、思いもよらぬ友人を探し出してくれることも多い。

私は、友人たちと私的なサ゗トを共有しているが、そのサ゗トに30年以上音信がなかった古い友人から連絡が入り、昔に増して親しい交際を再開している。そんな中の1人は、ずっと長くゕメリカの地方都市に住んでいるので、会って話をする機会をまだ持てずにいる。朋有り、遠方にいて、来たらず、亦楽しからずや、である。

asahi.comのなかで私が編集しているAIC(ゕサヒ?゗ンターネットキャスター)というコラムには、世界中から投書が寄せられる。私は、投書の主と仲よくなる癖があり、うち2人をコラムの正規の執筆者に起用してしまった。また、見ず知らずの別の投書者の誘いで、上海までカニを食べに出かけたこともある。

友人を見つけるのに、゗ンターネットは便利だということを、私が説きたいわけではない。本当のことをいえば、知り合いはもうあまり増やしたくない。この年になると、人とのつきあいがめんどうにもなってくる。

しかし、強い志に出会うと、ついつい体と心が反応してしまう。私が言いたいのは、「朋」を作り出すのは、志であるという話だ。強い志は、多くの人の気持ちを揺さぶり、引きつけ、友人にしてしまう。志こそ、国籍や年齢、性別、職業を超えて、人を結びつける、゗ンターネットよりはるかに普遍的な力なのだ。

孫さんの活動を、陰に陽に助けた数多くの友人。その多くが日本人であることを、私は誇りに思うし、自分がその中の1人に数えられたいとも思う。

穴吹 史士(朝日新聞)

同志出良朋

穴吹 史士

有朋自远方来,不亦乐乎。《论语》开篇这一节名句,在日本人中也较为人知。与我同年代的人,在十几岁时就被灌输在脑子里。40年过去的今天,无论与新朋相会,与旧友重逢,仍总要想起这句话来。

两年前与孙盛林第一次相见,孔子这句话再度在脑海中闪现。他自己介绍说:“小时候在山东呆过九年,其后在黑龙江九年,在北京九年,来东京也有九年了。”尽管中日之间交通已经变得容易而迅速了,我还是感到,他是自“远方”而来。

孙君小我15岁,他当时为了人民日报网络版日本站早日上轨道,真正是赤手空拳,发愤工作。我自己也处在刚刚从印刷媒介转向网络世界的当口,正为新的表现形式苦苦摸索。一见如故,引他为超越世代、年龄的同志。

《日中飞鸿》,给本来就忙的不可开交的孙君增加了新的负担,而我,在那之后,也经历了癌症发病、入院和手术的变故。是彼此对因特网媒介的未来的坚定信念,才使这个小小的栏目得以持续。在这期间,人民日报网络版日本站读者人数取得了飞跃的增长,朝日新闻网络版,也快速成长起来。

“朋”的概念,超越幼时的伙伴、学校的同学和单位的同事的范畴,不断地扩大。颇像因特网的扩展形式。实际上也是,通过因特网,经常会遇到预期不到的朋友。

我和友人运营的一个个人站点,断绝了30年音信的老朋友突然找了上来,重续友情,亲密不亚当年。其中有一个人,一直居住在美国的地方城市,至今没有机会见面叙旧。正是,有朋在远方,未曾来,不亦乐乎?

朝日新闻网络版中,我编辑的AIC(朝日因特网主持人)专栏,收到来自世界各地的来稿。我有个和投稿人交好的毛病,甚至启用了其中的两个人作为专栏的正式执笔人,还应另外一位素未谋面的投稿人之邀,专门跑到上海去吃螃蟹。

要交朋友,因特网是个便利手段——我想说的不是这点。说真话,已经不想多结识人了。到了这个年纪,和人交往有时甚至觉得有些麻烦。

但是,遇到有志者,身心不由自主地发生感应。我想说的是,同志出真朋。强大的志向,能够打动许多人,吸引他们,终成挚友。志向是一种普遍的力量,远远大于因特网,可以超越国籍、年龄、性别、职业等因素,把人联结在一起。

孙君的工作,得到众多朋友各个方面的帮助。朋友中有很多日本人,使我感到很是自豪,也希望,自己能成为那其中的一个。

日漢対訳読物 22

外では友だちが頼り

孫 盛林

中国には「家では両親が頼り、外では友達が頼り」という言い方がある。これは、まったくそのとおりで、一生涯のうち、家にいる時間は限られており、人生の大部分は友達に頼らざるを得ない。海外にいて、周りに親族もいない、言葉も文化も違う、考え方も違う、社会制度も違う、となるとなおさらだ。人間はしかり、仕事もまたしかりである。

これほど感無量なのは、5月1日がちょっと特別な日であるからだ。この日は、人民日報゗ンターネット版の日本サ゗トが設立されて2年半にあたり、日本語版の創刊から1年半になる、ちょっとした記念日なのだ。各分野の支持と協力がなければ、日本サ゗トと日本語版の今日の発展は想像もつかなかったことは言うまでもない。その一つに、私達が多くの日本の友人に恵まれたことにある。

海外で仕事を展開する際、常に様々な問題にぶつかるが、まずは、中国と異なる各種規定や制度が一つの難関となる。そこで、経済コンサルタントである私の友人は、ずっと無償でわれわれを助けてくれ、いろいろなゕ゗デゕを出したり、私達のためにあちこち奔走したりしてくれた。彼いわく:「私は中国の東北部で十何才まで育っており、そこは私の古里である。日本が過去にやったことに、私は自分の力の及ぶ範囲で償って行きたい。微々たるものに過ぎないかもしれないが、私の気持ちである」 その素朴で誠実な言葉に胸を打たれる。

似たようなことは数え切れないほどある。私達が日本語版の翻訳レベルの低迷に悩んでいる時、私の学生の1人が自分の中国留学時代の友達を紹介してくれ、これによって、われわれは初めて日本語を母国語とする校正者を得たと同時に、編集部で日本人パートを採用する先例を切ったのだ。また、私たちが日本語ができる人材を集められなくて困っているとき、私の東京大学時代の恩師がたまたま北京外国語大学の日本学研究センターの客員教授として赴任しており、そのつながりでわれわれは学生の就職を担当する先生と知り合い、日本語の優秀な人材を常に確保することができるようになった。ある友人は、日本語版の創刊以来、ずっと訳文に対する批評を゗ンターネットを通じて寄せてくださり、私どもの影の先生になっている。さらに、日本サ゗トがオフゖスの改装工事のため、居場所がなくなった時も、1人の友達がうまい具合に、東京近郊にある自分の建物を提供してくれたので、われわれは支障なく仕事を続けることができたのである。

穴吹先生は「学問の海に深まる友情」(4月1日更新)に対する返信の中で、人民日報と朝日新聞が交換しているコラム「中日飛鴻」を取り上げて、そのメーリングリストのタ゗トルが「Friendship=友情」となっていることを指摘していた。先生がご存知のとおり、両社の゗ンターネット上の友情は、私たち日本サ゗トを取材した朝日新聞記者の縁結びで始まり、双方のリーダーシップとメンバーが精一杯育てて来た賜物(たまもの)なのである。ちなみに、最初のその取材は、東京大学の若い1人の先生の紹介で始まった。

中国には、「一滴の水の恩を涌き出る泉をもって報いる」という言い伝えがある。日本サ゗トと日本語版はゼロからスタートしたが、今日では十数人のメンバーを抱え、日本人の正社員もおり、画面もある程度充実し、改善された。とりわけ、毎日訪れる1万人に及ぶ「゗ンターネット・フレンド」は、私たちの友人の輪を大きく広げ、私たちに苦労の甲斐を教え、発展への自信を与えている。「大きな徳は、感謝の言葉を待つまでもない」と中国では言われているが、実にそのとおりで、感謝してもし切れないのだ。1000字あまりの短い文章では、われわれがこれまでに与えられた支持と協力の万分の一も書き尽くすことができない。彼らは、私たち一人ひとりに、また私たちの仕事に大きな手助けをしてくれただけでなく、中日友好のために尽力して、さらに両国の民間交流における重要な構成部分でもある。われわれはその全てをいちいち数えるすべもないが、いつまでも忘れず、これからも、ひたすら仕事に励んで行くだろう。

私はこの短いお手紙をもって感謝の意を表すと共に、日本の慣用語お借りして結びに代えさせて頂きたい‐‐今後とも、どうぞよろしくお願い申しあげます!

孫 盛林(人民日報)

在外靠朋友

孙 盛林

中国有句俗话:在家靠父母,出门靠朋友。这话一点不假。人的一生中,在家的时间毕竟有限,这就决定了人生的大部分,要靠朋友才能成事。身居国外,举目无亲,语言文化不同,思维方式不同,社会制度不同,就更是这样了。人且如此,事业亦然。

发此感慨,是因为今天有一点特殊的意义:五月一日,是人民日报网络版日本站建站两年半、日文版创刊一年半的一个小小纪念日。可以说,没有各个方面的支持和帮助,日本站和日文版能有今天的发展,是不可想象的。其中之一,是我们受惠于很多日本朋友。

在国外开展工作,经常遇到一些问题,那些不同于中国的各种规章制度首先就是一道难关。我的一位做经济咨询师的朋友,一直无偿地帮助我们,出谋划策,跑前跑后。他说,“我在中国东北长到十几岁,那是我的故乡。对日本过去的行为,我想在自己力所能及的范围内做点补偿。虽然微不足道,但是我的心意。”朴素真诚,令人动容。

类似的事例,不胜枚举。在我们为日文版翻译水平难以提高而苦恼的时候,我的一个学生,介绍了她在中国留学时的朋友,于是我们开始有了第一个母语日文校对,也开了编辑部采用日本临时工作人员的先河。在我们为招收日文人才没有进展而发愁的时候,我的东大的导师恰巧在北京外语大学日本研究中心短期任教,通过他的穿针引线,我们接洽到了负责学生就职工作的老师,开始有了日文优秀人才的稳定来源。一位朋友,从日文版创刊开始,坚持不懈地对译文进行评点,通过因特网,她成了我们不见面的老师。在日本站因为办公地点改建而一时无着时,又是一位朋友,及时腾出了他在东京近郊的房屋,使我们得以不间断工作。

穴吹先生在《谊深学海》的回信中提到,人民日报和朝日新闻为“中日飞鸿”专栏进行工作交流的邮件列表,名字就是“友情”。正如先生所知,两个报社的网上友情,开始于一位采访过日本站的朝日新闻记者的牵线搭桥,以及双方领导和工作人员的精心培育,而最初那次采访,则起源于东大的一位年轻老师的介绍。

滴水之恩,当以涌泉相报。日本站和日文版从零起步,今天有了十几个人,并开始有了日本正式职员,版面上也得到一定程度的充实和改观。特别是,每天来访的这支上万人的“网友”队伍,大大壮大了我们的朋友圈子,让我们感到辛苦的价值,增添了发展的信心。大德不言谢,实际上谢也是谢不过来的。一篇千字的小文,书不尽我们所得到的支持和帮助之万一。他们所做的,不仅仅使我们个人、我们的工作受益匪浅,更是为中日友好的大业尽心尽力,是两国民间交流事业的一个重要组成部分。对这一切,我们无法一一尽数,但始终不会忘怀,无法一一报答,唯有努力工作而已。

我愿意用这封短信,在聊表谢意的同时,借一句日本俗话来结尾:今后还请,多多关照!

日漢対訳読物 23 学問の海に深まる友情

王 麗萍

今年の1月、私はまた、保定の古蓮池を訪れた。

前回来たのは去年の秋であり、五十川倫義先生への返信の中で、その感想を述べている。実は、保定古蓮池で私は、「張裕ザオ宮島大八師弟記念碑」を見つけ、同じく深い感銘を受けていた。あれ以来、詳しいことまでは知らなかったこの記念碑は、時折、私の頭の中に浮かんできたものだ。

後になって、「中国語と近代日本」(安藤彦太郎著)という小冊子を何気なくめくっていると、なんと、宮島大八の名字が目についたのである。それで、やっと謎をとくチャンスに恵まれ、嬉しくてしかたなかった。

この本いわく、1887年、19才の宮島大八(1867―1943)は父宮島誠一郎の紹介で、直隶省(河北省)の保定府にある蓮池書院に行き、当時、桐城派学者で、著名な古文学者、碑学派書法大師でもある張裕ザオ(1823―1894)の下に弟子入りしたという。

1895年、宮島大八は帰国し、自宅で私塾を開いて中国語を教えはじめ、後に善隣書院と名付ける。当時、日本には正規的な中国語教育がなかったため、私塾は日本での中国語教育の中心となっていた。その後、宮島大八は東京外国語大学中国語学科の主任に任命される。ところが、張裕ザオが湖北省の出身であったため、宮島大八にも湖北なまりがついてしまい、その影響を受けて、当時東京外国語大学を出た学生はみな多少湖北調になっていた。彼の著作「急就篇」は、戦前日本の中国語教育の経典であり、40年間で170版あまり出版されたのである。

保定の蓮池書院が清代の名学府であったことは知っていたが、日本の中国語教育とこれほど深い関係があるとは知らなかった。

1月、再び保定古蓮池を訪れた時は、ちょうど降雪後の初晴れで、園内には観光客もなく、亭や楼閣、小橋や遊歩道、うまく作られた山や枯れきった柳の木は、みな静まり返っていた。去年きた時、咲き散った蓮がそこら一面に広がっていた池は、氷と雪に覆われ、静かに眠っている。小さな石を散りばめた遊歩道に沿って、私は奥ゆかしい西の庭に辿りついた。黒玉石で造られた「張裕ザオ宮島大八師弟記念碑」はここに立っている。正面は日本の著名の書法家で、張氏書法の第三代継承者である上条信山の書で、横の額面「誼深学海」という大きな四文字は、中国の有名な書法家―啓功の題字である。そして、碑の後ろの銘文には、遠い昔の物語がつづられていた。

蓮池書院は詔書を受けて1733年に設立され、170年あまりの歳月を経て、1908年に閉院する。1883年から1889年まで、張裕ザオは李鴻章の招へいを受け、蓮池書院の院長となる。

蓮池書院が日本の留学生を受け入れ始めたのは、張裕ザオからであり、宮島大八はその第一人者であった。宮島大八が蓮池書院にきた時、定員はすでに決まっていた。そこで彼は、自分はご高名を慕ってきたので、張の下以外には入れないと表明した。その実直な意志を見た張裕ザオは、特別、李鴻章に事情を説明し、許可を得た後に、この海を渡ってきた学生を受け入れたのである。中国の習慣に基づいて、ひざまずいての師弟の儀式が行なわれた。宮島大八は、中国の学生達とより多く交流すると共に学問に対する自分の心を表すため、辮髪を長し、中国の服装を身にまとった。

宮島大八は張裕ザオに付いて、まずは蓮池書院に、後は一緒に武昌と襄陽書院にいた。その間、大八は結婚のため一時帰国するが、彼が再び襄陽に戻った時、先生の姿が見えなかった。あちこち訪ね、先生がすでに長安に行っていることを知った彼は、漢水を遡って荊紫関を通り、厳冬に秦嶺を超えて、やっと先生との合流を果した。宮島大八は張家の一員となり、張に随って経学、訓詁、書法と、日夜、筆と墨の世界に浸っていた。1894年1月14日、張裕ザオはこの世を去るが、宮島大八は、先生のお体を清め、喪に服し、最後まで見送ったのである。

宮島大八は8年間張裕ザオに連れ添い、古文儒学を深く取得したが、最も収穫の大きかったのは、なんと言っても書法であった。宮島大八は張裕ザオ碑学派の真髄を身につけ、日本に戻ってからも引続き勉学に励み、日本書法界の大家となると共に、独自の流派を形成するまでに至る。

蓮池書院を後にしていると、いつか東京の代々木にある善隣書院に行って見ようという思いが私の脳裏を掠めた。聞くところによると、百年あまりの歴史を持つこの書院は、今も相変わらず中国語の学校として残っていると言う。

王麗萍(人民日報)

谊深学海--张裕钊与宫岛大八

今年一月,我又一次来到保定古莲池。

上次来访是去年秋天。在给五十川伦义先生的回信中,我谈到了保定旅游的感想。其实,在保定古莲花池看到一块“张裕钊宫岛大八师生纪念碑”,同样给我留下深刻的印象。以来,这块我不知细节的纪念碑不时地在脑中闪现。

后来,无意翻阅一本叫做《中国语与近代日本》(安藤彦太郎著)的小册子时,居然读到了宫岛大八的名字。终于有了揭谜的机会,令我兴奋不已。

书曰,1887年,19岁的宫岛大八(1867-1943)在其父宫岛诚一郎介绍下,到直隶省(河北省)保定府的莲池书院,师从桐城派学者、著名古文学家、碑学派书法大师张裕钊(1823-1894)。

1895年宫岛大八回国,在家中开设私塾教中文,后称善邻书院。当时日本没有正规的中文教育,私塾成了日本中文教育的中心。后来,宫岛大八出任东京外国语大学中国语科主任。由于张裕钊是湖北人,结果宫岛大八也有了湖北口音。受其影响,当时东京外语大出来的学生多少都带湖北腔。其著作《急就篇》是战前日本中国语教育的经典,40年中出了170多版。

只知道保定的莲池书院是清代的名学府,却不知还与日本的中文教育有着如此深的渊源。

一月再访保定古莲池时,正值雪后初晴,园中没有游人,静静的是那亭台楼阁,小桥曲径,假山荒柳。去年来时的满池残荷,变成平静的冰雪池面。沿着碎石小径,我来到幽静的西小院,黑玉石的“张裕钊宫岛大八师生纪念碑”就立在那里。正面碑文为日本著名书法家、张氏书法的第三代传人上条信山所书。横额“谊深学海”四个大字,是中国著名书法家启功的题字。碑的背面铭文,记述了一个很久以前的故事。

莲池书院奉诏建于1733年,1908年停办,历经一百七十多年。1883年至1889年,张裕钊受李鸿章之聘,任莲池书院院长。

莲池书院接收日本留学生始于张裕钊,宫岛大八为第一人。宫岛大八到莲池书院时名额已满,但他表示,自己慕名而来,只愿入张门下,不愿他就。见其心诚,张裕钊特报请李鸿章得准,收了这个渡海而来的学生。按照中国的习惯,行了师生跪拜礼。为便于与中国学生交往和表达自己向学之心,宫岛大八也留起发辫,穿起中国服装。

宫岛大八随张裕钊先在莲池书院,后又一起到武昌和襄阳书院。其间,大八因婚事回国,当他再返襄阳时,却不见了老师踪影。他四处打听,得知老师已去长安,溯汉水,过荆紫关,严冬时节翻越秦岭,得以和老师会合。宫岛大八成了张家一员,随张学经学、训诂、书法,日夜相随笔墨之间。1894年1月14日,张裕钊辞世,宫岛大八为老师净身,送终服丧。

宫岛大八跟随张裕钊8年,除了古文儒学受益匪浅,更大的收获在书法上。宫岛大八得张裕钊碑学派书法真传,回到日本后继续潜心研习,成为日本书法界的大家,并且自成流派。

游完莲池书院,我突然冒出一个念头,什么时候还得去位于东京代代木的善邻书院看看,据说,历经一百多年,它仍旧还是一所中文学校。

日漢対訳読物 26 友情の積み重ねが大切

穴吹 史士

恥ずかしい話だが、宮島大八という名も、張裕ザオという名も、私は初めて聞いた。いいわけをすると、このコラムの日本人執筆者の中で、中国の専門家でないのは私ひとりである。ほかの執筆者にとっては、当然知っておくべき有名な人物なのかも知れない。しかし、多くの日本人は私同様、この2人に関して、なにも知らないと思う。

日中間の争いは、太平洋戦争や日清戦争、さらに歴史をうんとさかのぼった戦争まで、日本史の授業で教えられる。また、一般向けの本もたくさん刊行されているので、みんな初歩的な知識は持っている。しかし、日中間の友情、それに尽くした人々の話となると、情報は極端に少ない。

戦争を常に思い出し、反省を重ねることは、同じ悲惨な事態を繰り返さないために、重要な営みである。だからといって、友情の足跡に無知でよいという意味にはならない。だが、あまり友情面に言及すると、戦争から目をそらそうとしているのではないかと受け取られたり、相手国におもねっているのではないかと思われたりすることが、日中間に限らず、ままある。

7世紀から9世紀にかけ、日本は隋、唐へさかんに公式使節を送り出した。船の難破で多くの死者、行方不明者を出しながらも、送り続けた。遣隋使、遣唐使といい、小学校でも教えられる史実だが、専門的研究者は他分野に比べて少なく、まとまった研究書も多くないのだそうだ。深く研究すると、日本の古代や中世の政治や文化の基盤が、ほとんど中国からもたらされた事実が明らかになり、自国の優位性を強調する戦前の風潮に合わなかったからだともいう。なんと狭量な学問的姿勢だろう。

私はいま、仕事の関係で、9世紀中葉に唐に渡った円仁という仏教僧のことを調べている。遣唐使の一行から脱走する形で中国にとどまり、武宗が行った中国史上最大の宗教弾圧で追放されるまで、9年にわたって、各地を転々とした。宮島大八と同じく、「師を求めて」の中国行きだった。その学問を志す情熱には、すさまじいものがあり、苦労の末、長安にたどりついて、何人かの師に巡り会うことになる。

円仁は克明な日記をつけていて、中国の正史に欠落している貴重な記録もそのなかにはある。この日記が持つ世界史のレベルの価値を見いだしたのは、元駐日米国大使のラ゗シャワー博士だった。日本の歴史家が国際関係の研究に冷淡だった証拠のひとつといえるかもしれない。

円仁の日記で印象的なのは、行く先々で出会う市井の中国人のこまやかな友情である。ある人は、遠路の道案内を買って出る。ある人は、友人や宿舎を紹介する。またある人は、路用の衣類や食糧を準備してくれる。円仁は帰国後、有力な宗派の長となり、彼が中国で学んだ当時の最先端思想が日本に広まることになるが、長安の師だけが、それに貢献したわけではない。円仁の仕事の完成には、市井の中国人の親切な友情が不可欠だった。

戦争は国と国との関係、友情は人と人との関係だと、つくづく思う。友情の記憶が戦争のそれより伝わりにくいのは、そんなスケールの差と関係があるのだろう。それだけに、こまめな友情の積み重ねが大切になる。この「日中飛鴻」というコラムも、新聞社と新聞社という関係より、記者と記者、人と人という要素が強いように見える。そういえば、このコラムの筆者、編集者が記事をやりとりするメーリング?リストの名前は、確か「friendship=友情」と名付けられていたはず„„。

穴吹史士(朝日新聞)

重在友情积累

说起来不好意思,宫岛大八和张裕钊的名字,我都是第一次听说。说句搪塞的话,执笔这个专栏的日本人中,只有我一个人不是中国问题专家。对于其他执笔者来说,也许是理所应当知道的人物,可是,我想大多数的日本人同我一样,对于这两个人,均是一无所知。

日本的历史教学,对中日间的纷争,比如太平洋战争、甲午战争还有那以前的战争都有所介绍,面向一般读者的书也很多,因此大家都有些基础知识。但是说到日中友情,说到为增进日中友情不遗余力的人们的事迹时,信息资料却极其地少。

为了不使悲剧重演,经常回想战争、反省战争是很重要的工作。但这并不是说,对友情的足迹一无所知也无所谓。然而,友情的话题涉及太多,被怀疑是不是要转移人们对战争的视线,是不是在讨好对方等等,这种情况也是常有的,而且不仅限于日中之间。

从7世纪到9世纪,日本不断向隋、唐派遣正式使节,史称遣隋使、遣唐使。虽然海难带来了死亡和失踪,派遣仍然持之不懈,日本的小学校也在教授这些史实,然而与其他领域相比,这方面的研究者很少,象样的研究著作也不多。原因在于,如果深究的话,日本的古代和中世的政治、文化基础基本上都是从中国来的事实就会明白无余,这不符合战前的强调本国优越性的潮流。多么狭隘的学术姿态啊。

我因为工作关系,现在正在研究9世纪中叶越海留唐的一位叫圆仁的佛教僧的情况。他以逃离遣唐使队伍的方式滞留中国,直到遭遇武宗的中国历史上最大的宗教镇压,受到追放为止,九年中辗转中国各地。同宫岛大八一样,圆仁去中国也是为了“拜师”,追求学问的精神十分感人。经过一番劳苦,最后到了长安,幸遇了几位名师。

圆仁写有详细的日记,其中包含了中国正史中遗漏的贵重记录。首先发现这部日记所具有的世界史价值的是原驻日美国大使赖舍尔博士。也许这也可以说是日本的历史学家对国际关系研究冷淡的一个证据。

读圆仁的日记,给我印象很深的是,他所到之处接触的市井平民们的深厚友情。有的人主动给他当远路的向导;有的人把自己的朋友和宿舍介绍给他;还有的人,为他准备路途用的食粮与衣物。圆仁回国后,成为大宗派之长,他在中国学到的当时最先进的思想在日本得以传播光大,这其中不仅是他的长安老师的贡献。圆仁事业能有所成,更与那些平凡的中国人的友情分不开。

3.口译笔试做题忌求全 篇三

做题不要“求全心态”

郭中宝认为,在最后十天里,主要是精力应该放在前两个部分,即填空和选择题。填空部分不要有求全心态,部分单词应使用简写,以节省时间。在选择题部分,一定要扫题,预测重点,对文段有所判断,这样才能在听力中集中注意力听到题目中的问题。前面两个部分应该拿到42分左右,这样后面的压力就会比较小。

听译部分要抓住“听意不跟词”这个原则。在最后十天练习时,要按照考试要求,在规定的时间完成规定的题目。也可以在练习听译的同时做听写,这样可以帮助提高整个英文水平,而且还能提高短时记忆力。

笔试翻译的评分标准有措辞准确性、习语准确性、解释地道、拼写、时态、标点符号等,所以考试时在这几个方面要特别注意不要失分。

“现场听写”抓住三点

对于做“现场听写”部分,专家认为要抓住三点:

第一,边听边看边写,注意不要把文章中已有的内容听写上去;

第二,善用简写,可以参看《高级口译笔试备考精要》,上面有考试中的高频词汇,通过四五天的练习这些简写就能完全掌握;

第三,要懂得放弃,这是一条做题的原则,高级口译的考试题目中出现两三个难度比较大的单词是很正常的事情,一定要有抓大放小的心态,不要因为一处听不懂就在上面花的时间过长,这样的结果是不会的还是不会,而会的又没有时间去写了。

坚实的词汇是基础

没有坚实的单词基础通过任何一门考试都是巧妇难为无米之炊,建议练习听写的同时记忆单词,听写和记忆同步进行,这样效果最佳。

张驰新建议,把全真试题集中所有冷僻的生词和短语背诵下来,这样至少在心里有个底。一味再去强调词汇的积累并不是冲刺阶段应该重点准备的。

听、记同时快速进行

听力方面,郭中宝认为首先要听懂,只有理解了才能把意思全部翻译出来,使“听”和“记”同时快速度进行。句子听译以脑记为主,笔记为辅,笔记要记下来数字、人名和地点名。即将参加考试的同学,要尽量在听写和听力理解上多拿分数,这两部分在短期内提高得会比较快。

做翻译考试时,不少学生感觉心里很清楚,可就是写起来有困难。张驰新说,翻译第一步要求读懂原文,但这是建立在读懂文章架构脉络的基础上,不要求单句意思非常清楚,所以翻译的阅读主要是搞清楚文章的主题和语体色彩。在高级口译笔译部分还要搞清楚文章的语体色彩,演讲性的文章应用感情色彩较强烈的语言翻译,外交性的文章用词保守规范,有一定的套路。这些学生的问题主要是缺乏练习。

中级和高级有不同

说到高级口译和中级口译的不同,张驰新说,中级翻译更多的是在对和不对上评判,在现实阅卷中发现大多数考生基本上都不能准确地诠释全文,有些考生甚至对文章大意也不清。所以中级考生在翻译时不需要过多考虑文章的辞藻,只要表达正确就可拿到基本分,所以不建议考生多用意译,能够直译的就一步到位。事实证明80%以上的词句都可以用直译。

4.口译笔试作业 篇四

第一部分听力90分,分为三部分,均为30分。Part A是复合式听写,20个空,跟四六级考试有点类似,但区别在于全文只能听一遍,每个空要填2-4个单词,语速大约130词/分。Part B是听力理解,包括单句理解,长对话和短文。单句理解就是从四个选项中找出和所听到的句子意思最接近的一个,长对话和短文与四六级差不多。Part C是听译,分为单句听译和篇章听译,都是英译汉,即听力放英语句子和文章,然后留出一段时间,考生写出汉语翻译。

第二部分阅读60分,六篇文章,每篇文章后5个选择题。

第三部分英译汉50分,第四部分汉译英50分,要求考生不借助任何词典、参考资料和其它媒介,将一篇长度为180个单词(汉字)左右的英(汉)语文章段落译成汉(英)语。译文需忠实原文的意思,且语言通顺,符合译语规范。

合格为150分。凡第一阶段合格的考生方可参加第二阶段口试。笔试成绩两年内有效,即笔试通过后可以参加四次口试,只要任何一次通过即可拿到口译证书。

第二阶段口试,每年5月和11月,共分两部分:口语与口译。口语部分要求考生就指定话题作三分钟左右的命题发言,话题后面有三个提示问题,但不要求一定要按照问题阐述观点。考生拿到口语试题后有五分钟的准备时间。口译分英译汉和汉译英两部分,每部分均要求口译主题各不相同的两个段落。各两段,每段四断,每断两或三句,每断单独评分。答对11句及以上可以通过。

考生只有在通过笔试和口试两个阶段以后才能获得《上海市英语中级口译岗位资格证书》。

考试的指定培训教材:《中级听力教程》(周国强编著),《中级阅读教程》(陈汉生编著),《中级翻译教程》(孙万彪、冯慎宇编著),《中级口语教程》(严诚忠、朱妙南编著),《中级口译教程》(梅德明编著),均由上海外语教育出版社出版。听力和口译教程配有磁带,mp3网上可以下载到。

推荐参考书:《中级口译真题解析》,同济大学出版社,内有八套真题并配有详细解析,必买;新东方口试考试培训班指定辅导用书系列,汪海涛、邱政政主编,世界图书出版公司,一套四本,中口用到《词汇必备》,《口试备考精要》和《中口笔试备考精要》三本;《英语中级口译实用教程》,康志峰主编,华东理工大学出版社;《英语中高级口译笔试冲刺》和《口试导考》,都是谭宝泉编著,前者是上海译文出版社,后者是东华大学出版社;《实战口译》,(英)林超伦编著,外语教学与研究出版社,讲口译速记符号的。

网络资源:上海外语口译考试网(),南京报名点;口译资料无限网(),海量资料下载,而且是免费的,不过最近没有更新了;沪江口译(tr.hjenglish.com),上面有新东方、昂立等著名培训机构教师的博客;美国之音mp3下载(/en/voa/),美国之音是练习泛听的良好材料;上海新东方论坛(/index.php),这个我上的不多,大家有兴趣自己看看。

二、如何准备笔试

分为背单词、教程学习和真题演练三个阶段。如果目的只是通过考试而不是提高能力什么的,那么一切都要围绕考试展开。也许考生里不乏有人衷心热爱祖国的英汉翻译事业,但我想大多数人还是像我一样想混张证书以后找工作增加点筹码。

1.背单词

单词是肯定要背的。口译的准备一般从寒假开始,这时离你四六级考试或英语期末考试结束已经有一段时间了,背单词可以唤醒你丧失的英语记忆。而且上面也提到口译单词涉及到诸多方面,其中绝大部分都是具有中国特色、与我国现阶段国情紧密相关的,社会实用性很强,这些都是大学英语教学所欠缺的。有些单词你可能以前都没有接触过,通过背单词,可以初步了解口译考试的考点。

我用的是新东方的《中/高级口译考试词汇必备》,这也是迄今为止我所知道的最好的口译单词书。它打破了单词书按字母顺序编写的常规,将口译常用单词和词组分为若干类,既有英译中,也有中译英,充分考虑了口译的双向性。所选内容除了来自教程外,还参考了国内外多种资料和媒体,很多翻译(特别是对外口径)都是“权威”表达。

背单词点到为止,千万不要花太多时间,毕竟考试不是考默写单词。我不理解为什么很多人准备四六级考试都是天天捧着一本单词书写写划划的,我记得自己当时单词就看了两遍,还是当小说看的那种。另外这本单词书有不少是高口,甚至高口都考不到的词汇,中口阶段没有必要去记。对常用单词有个印象即可,注上音标和汉语意思。

2.教程学习

同理,教程也没必要花太多时间。通过对题型的分析可以发现,口译考试听力部分的长对话和短文、阅读部分跟以前的考试完全相同,单句理解和短对话有共通之处,不同的只有听译和翻译。对应到教程上就是听力教程的听译部分和翻译教程。

翻译教程应该好好研读。我的复习程序是:英译汉:自己认真翻译一遍,阅读英语原文,查生词,注上音标和汉语意思;看注释;对照英语原文和参考译文,体会翻译方法,划重点;对比自己译文和所给译文,补划重点。汉译英:自己翻译;看英语翻译,查生词,注音标和汉语意思;看注解,对照原文和所给译文,体会翻译方法,划重点;对比自己译文和所给译文,补划重点。如果觉得将汉语翻译成英语有困难或者时间不够的话也可以直接看原文和所给译文。

听译部分很多都讲了影子训练法和速记符号,具体的大家可以上网查。我个人觉得都没有必要学,听译30分只占总分的1/8还不到,而且你不可能一分拿不到,只要有一定听力基础的一般至少10分。所以我觉得没有必要刻意去训练,放到真题中演练就可以了。事实上我一直到口试通过了都没有学速记符号,只要字写得快点自己还能认得,短期记忆也不是过目就忘,就直接全部记下来好了。试想一下,强行学了符号,上考场一紧张你还能记得多少?听到单词第一反应不是记下来而是想该用哪个符号代替,听力稍瞬即逝,这种二次读取记忆往往很危险。

三、分项突破

复合式听写很多人都反映文章能听懂但就是单词记不下来。听力基本功最重要,此外要熟练掌握常用单词的拼写。因为最终考察的就是听到单词后写下来,所以反应一定要快。至少达到“能基本听懂,根据上下文意思能正确写出”。可以“鬼画符”尽量力求完整的把所有内容记下来,也可以用缩写。上面说过了,根据个人情况。如果你速记符号不是很熟最好用前者。另外,在写字的同时,耳朵还要继续听录音,眼睛扫视后面的句子,大脑保持高度紧张,才能跟上录音的速度。

听力理解有一定难度,因为可供理解的信息比较少,只有一句,所以比短对话难猜。长对话和短文跟四六级差不多。这一部分在听前一定要把选项仔细读一遍,至少看完前5个题目的选项,在听每道题目前再把四个选项好好读几遍,猜出题目大概会问什么,然后通过听到的关键词捕捉最有用的信息做出选择。听译也是目前国内大部分英语考试中没有出现过的题型。这种题目难度主要在于理解和记忆。首先,如果听不懂或判断错了主题,就只能凭空想象乱写一气。其次,听懂但转眼就忘了,这可以通过日常的训练加以解决。影子训练法和速记符号大家上网去查,在这里我还是建议大家提高一下自己的写字速度和辨认能力。我只是在真题中演练了一下,具体方法是:记笔记,在下面写出汉语,句子听译和短文翻译以及两篇短文听译之间誊抄部分译句;听英语,看英语原文和所给译文,体会翻译方法,划重点;对比自己译文和所给译文,划出漏听词并注上译文。

至于阅读,中口阅读文章的难度介于四六级之间,但是时间紧,这就要求有一定速度和准确性。建议大家在做阅读时争取一遍完成,不要指望回头检查。其实我当时阅读考得很差,60分只拿了24分。都说阅读是大头,我也奇怪自己笔试怎么通过的。很惭愧所以不能给大家什么指点,好在除了文章长一点外和四六级大致相同,大家按自己一贯的方法就可以了。

翻译包括英译汉和汉译英,这也是考察语言真实水平的题目。除了掌握一定的翻译技巧和方法外,还需要有大量的翻译实践。翻译题目最好都事先动手做一遍,不要以为看看答案就能做得一样。自己译完后再对照答案,看看什么地方理解错误,什么地方可以翻译得更好。这就是上面我说的要对照、对比原文和译文的原因。至于语言表达,一定不要强行记忆标准答案里很晦涩难懂的翻译,一切都要以自己原有的行文习惯为基础。能使用接近答案的语言当然更好,但只要意思能准确表达出来,基本分也能拿到。但万一背下来的东西到考场上写不出来,或者不小心犯了语法错误,分数就全没有了。大家一定要记住这一点:笔试只要通过,成绩高低对口试没有影响。还有就是熟练掌握口译常用词汇,要很熟练。相对来说英译汉比汉译英简单,因为汉语是我们的母语,只要英语大致看懂了,总能用汉语把意思表达出来。但汉译英就不同了,笨一点的方法是一一对应,即每个汉语意思都与一个固定的英语单词对应。至于谚语,一般来说中口不太能考到这个。如果是英语谚语,一定要结合上下文意思,千万不要翻译得太离谱;汉语谚语则领会大意,用语法正确的英语句子把大致意思表达出来就可以了。

四、临场注意事项

听力的时间是固定的。试卷上写的是阅读和翻译各50分钟,但我还是建议大家做完听力后就做翻译,40分钟搞定,然后做阅读。万一到最后时间不够了选择题可以蒙,翻译是一定要写字的。

复合式听写做完后有约2分钟的时间让你把答案填到答题卷上,先不要把答案抄上去,马上看听力理解部分选择题的选项猜题目。单句听译间隙约45秒,篇章听译间隙约2分半,做题时心中有数。

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